fc2ブログ

邪馬台国の真相 7. 邪馬台国後の東アジアの様相

2 Comments
レインボー

邪馬台国時代後の様相(4世紀)


邪馬台国の真相 7. 邪馬台国後の東アジアの様相

日本の古代史では、1~2世紀は倭の奴国王などの小国分離時代、3世紀に邪馬台国時代、5世紀は北九州で倭の五王時代、6世紀は継体王(在位:507-531年)の時代が知られています。そして、4世紀は、日本(倭国)のことは中国の歴史書から消え、空白時代とも言われます。

今回は、この空白の時代と言われる4世紀の古代史を、邪馬台国との関連で検討します。

まず、関連の歴史経過表を地域別に下表に示しました。
古代の朝鮮半島と日本の歴史

そして、空白の4世紀ですが、朝鮮半島南部では百済と新羅が建国されています。

一方、倭国については、高句麗の広開土王碑文があり、4世紀末に倭国が百済と連合し高句麗と戦ったとあります。百済と倭国が連合したのは、両者は中国南部の越族に由来する同じマレー系の稲作民族のためだったと思われます。

このことは、北九州では邪馬台国が滅び、多数派のマレー系倭国が建国されたことを示唆します。

次に、朝鮮半島の古代の民族と古代国家について検討しますと、次のとおりです。

まず、現在のDNA(Y染色体ハプログループ)分類ですが、Wikipedia情報を下表に示しました。比較に日本と満州の結果も入れてあります。

朝鮮半島と日本のY染色体ハプログループ分類

朝鮮半島の多数派は中国系40%、続いてマレー系30%、モンゴル系10%、その他20%になります。なお、現在の朝鮮半島の民族はツングース系と分類されますが、ツングース系は中国系とモンゴル系の混合混血民族ですので、ツングース系50%(中国系+モンゴル系)、マレー系30%、その他20%と分類することもできます。

これらのデータと周囲の情報から古代4世紀の状況を推察しますと、下記のようになります。

まず、マレー系ですが、この民族には、縄文時代に渡来した海洋系(マレー系A)と弥生時代に渡来した水田稲作系(マレー系B)の2種が知られていますが、朝鮮半島では水田稲作系のマレー系Bが多数派です。

水田稲作系のマレー系Bは、3000年前頃、江南地方から山東半島を経て朝鮮半島に渡来してきました。このことは、朝鮮半島の弥生遺跡「松菊里遺跡」等から分かっています。北九州に渡来した弥生系もこのグループだったと推察されます。

朝鮮半島において、彼らは南西部に居住し、水田稲作を広げながら少しずつ南部に居住地を広げていったと思われます。そして、4世紀初頭頃に百済が建国されました。

百済建国に関しては、ツングース系の夫余が建国したと言われますが、その後の経過を見ると支配者は少数派のツングース系から多数派のマレー系に変わっていったと推察されます。そして、4世紀後半には、北九州倭国と連合し、北の強国の高句麗と戦いました。因みに、広開土王碑文によれば、倭国は朝鮮半島に出撃し399~404年に高句麗と戦ったことが分かっています。

一方、ツングース系ですが、彼らは、中国東北部の満州でモンゴル系と中国系が混合混血した民族で、1万年前頃、ツングース系民族となりました。言葉はモンゴル系、生業は半農半猟と言われます。

その後、寒冷化に伴い、彼らは、南下し、朝鮮半島北部と東部に居住し、居住地を広げていきました。7000年前にはツングース系と見られる高身長の人骨が日本で認められていますので、彼らの朝鮮半島への渡来時期は8000年前、日本への渡来時期は7000年前頃と思われます。

ツングース系民族については、中国東北部にいくつか認められますが、朝鮮半島北部に1世紀に建国されたのが高句麗、続いて、朝鮮半島南西部に4世紀に建国されたのが新羅となります。

新羅の慶州は2300年前頃から鉄生産の中心地になり、農業に革命を起こしました。その結果、鉄と畑作農業で発展し、4世紀に新羅建国になったものと思われます。

以上のことから、4世紀には、朝鮮半島北部はツングース系の高句麗、南東部はツングース系の新羅、南西部はマレー系の百済、という3国体制になり、3国の争いが7世紀の新羅統一まで続きました。

一方、北九州では、マレー系の倭国が4世紀に建国されました。倭国と百済は同じマレー系の同胞であり、連携しました。関連し、倭の五王最後の倭王「武」(後の百済武寧王)が現れ、5世紀に朝鮮半島南部の中心地(伽耶地方)も支配する大王となりました。

以上のことから、朝鮮半島は、現在は朝鮮民族だけですが、古代にはツングース系とマレー系が対立した時代が続きました。現在の朝鮮民族はツングース系に分類されますが、上記DNA表のようにマレー系が30%含まれております。

関連し、朝鮮半島の3国時代の4世紀の状況を上トップ図に示しました。この時期、日本では、鉄を持参し農業で優位に立ったツングース系民族が畿内(ヤマト)で建設した王家の時代で、巨大な前方後円墳が多数建造されました。

以上、4世紀頃の朝鮮半島と北九州の様相を外観しましたが、邪馬台国は完全に消えています。そこで、想像しますと、邪馬台国のその後の経過は、次のようだったと推察されます。

 1. 邪馬台国は、大分辺りにあり、過渡的なツングース系の国であり、北九州全体を支配するような大国には発展しなかった。
 2. 邪馬台国の後に北九州を支配したのは、多数派のマレー系倭国であった。
 3. 邪馬台国の末裔は東九州の大分、宮崎方面で残存し、その後、同じツングース系の関係からヤマトのツングース系王家と連携し、東九州を支配した。関連し、宮崎の西都原古墳群は、ヤマトのツングース系王家と連携した遺跡と推察される。

関連し、邪馬台国時代(3世紀)の様相を下図に示しました。


邪馬台国時代の様相(3世紀)


日本史ランキング
レインボー
Posted byレインボー

Comments 2

There are no comments yet.
motomasaong
骨肉の争い

 百済はマレー系だったとしても、高句麗と新羅は同じツングース系です。
 中国でも無論少数民族が多数存在しますが、同じアジア系同士で戦争を繰り返した歴史があります。
 日本もアイヌとマレーとツングースの混成民族ですが、同じ国内で繰り返し戦争を実行してます。
 権力や富への欲望は、他者の命や同じ民族の命を奪う事も辞さない残虐行為の根源であり、異民族が相手となれば、それこそ完全に粛清し尽くすまで虐殺が繰り返される事になります。

  • 2023/05/06 (Sat) 19:24
  • REPLY
レインボー
レインボー
Re: motomasaong 様 骨肉の争い

motomasaong 様
いつもコメント、ありがとうございます。

ご指摘の「完全に粛清し尽くすまで虐殺が繰り返される」ですが、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)が登場するまでそのようなことが起きていたと思われます。

特にツングース系ですが、彼らは高身長で鉄を持っていて、弥生時代と古墳時代を駆け抜けました。特に古墳建造時代ですが、彼らに対する怒りは大変なものであったと想像されます。

  • 2023/05/07 (Sun) 07:53
  • REPLY