邪馬台国の真相 8.邪馬台国が消えた理由、福岡と大分の違い
2 Comments
レインボー

邪馬台国の真相 8.邪馬台国が消えた理由、福岡と大分の違い
先に、「邪馬台国の真相 2.民族対立問題があった(戦乱の要因)」(3月31日アップ)では、北九州には、南方由来の稲作民族マレー系、朝鮮半島由来ツングース系、中山間部には縄文時代由来のアイヌ系が居て、民族対立問題があり、これが倭国の大乱の要因であったことを検討してきました。
一方、前回、邪馬台国(女王国)は、大分辺りにあり、北九州の諸国を支配していたが、その後、北九州は4世紀には邪馬台国は消え、北九州はマレー系の倭国に支配されるようになったことを検討しました。
関連し、今回は、福岡と大分の違いから、邪馬台国が消えた理由について検討します。
まず、北九州に倭国が生まれた理由ですが、朝鮮半島由来南部に居た同胞のマレー系「百済」の存在が大きいと思われます。
百済は4世紀に建国され、同胞の多い中国南部から仏教導入をするなど、朝鮮半島の先進国になったことが知られております。その先進国の支援を受け、同胞の多い北九州で倭国が創られたと思われます。
倭国の「倭」は低身長を意味し、マレー系民族に対する中国人の差別用語です。それだけ、北九州倭国は低身長の「倭人」が昔から多かったと予想されます。
この倭国建設の流れのなかで、邪馬台国は大分辺りにあった小国でしたので、倭国に近い部分は倭国に取り込まれ、残りは、同じツングース系ヤマトの支援を受け、東九州地域を支配するようになった想像されます。
次に、大分のツングース系の人数について検討します。
マレー系は低身長、ツングース系は高身長であることが知られています。例えば、DNA(Y染色体ハプログループ分類)と身長の関係です。
「邪馬台国の真相 2.民族対立問題があった(戦乱の要因)」で、Satoら(2014)のDNA研究結果を紹介しましたが、これを用い、男子身長とDNAの関係を調べますと下表のとおりです。

福岡、大阪、石川(金沢)の比較ですが、福岡はマレー系のDNAが多く、かつ低身長、一方、大阪と石川はツングース系のDNAが多く、かつ高身長の特徴が確認されます。言い換えますと、マレー系が多い地域は低身長、ツングース系が多い地域は高身長になります。
拙ブログでは、同様な関係を、「秋田美人と博多美人のルーツの違い、身長差から」で紹介したことがあります(下図参照)。すなわち、秋田美人のルーツは色白・高身長のツングース系、博多美人のルーツは丸顔で可愛らしい顔立ちの低身長のマレー系です。

次に、これらと同様な関係が、福岡と大分に認められるのか、同じように調べますと、下表のとおりです。

ここでは、北九州の佐賀、東九州の宮崎を加えています。平均値で見ますと各県164cmで、男女とも、各県に差異はまったくありません。言い換えますと、福岡・佐賀はマレー系が多く低身長、大分・宮崎はツングース系が多く高身長の傾向があることが予想されましたが、そのような傾向はありません。
この結果から、北九州古代の様相を想像しますと、次のとおりです。
まず、大分にツングース系の邪馬台国があったことを推定しましたが、支配者のツングース系は他の地域と変わらず、特に多いということは無かったことになります。
おそらく、弥生時代末期は、それぞれの県でマレー系、ツングース系、アイヌ系が混在していて、地域によって、マレー系、ツングース系、アイヌ系の首長が居た。その結果、民族対立問題もあり、争いが絶えず、これが倭国の大乱と思われます。
例えば、最近の発見では、吉野ヶ里遺跡で、ツングース系首長と思われる前方後円墳が発見されています。これなどは、佐賀平野という地域から見てマレー系が多かった地域と想像されますが、ツングース系が首長(王)であった可能性があります。
こんななか、鬼道を得意とする女性シャーマン(卑弥呼)が邪馬台国(大分)に現れ、北九州をまとめたと思われます。しかし、その力は北九州全域を圧倒するような力はなく、一時的で、4世紀となると歴史から消えたと推察されます。
そして、4世紀の覇者となったのはマレー系倭国でした。マレー系は、もともと多数派であり、かつ、北の同胞の百済の支援を受け、北九州倭国を創ったと想像されます。
一方、邪馬台国を創ったツングース系ですが、彼らは多数派ではなく、邪馬台国が滅びた後、大分・宮崎・鹿児島という東九州のツングース系をまとめ、かつ、同じ仲間のヤマトのツングース系(王家)の支援を受け、100m以上の巨大な前方後円墳を多数創り、古墳時代を創ったと思われます。
関連し、3~5世紀にツングース系が建造したと思われる九州地域の100m以上の大古墳を下表に示しました。すべて東九州だけにあります。

しかし、東九州のツングース系は多数派ではなく、このため、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)時代、九州のマレー系倭国やアイヌ系に攻められると、大きな抵抗もなく滅んだと想像されます。詳しくは「古墳王家は宮崎から滅びた」を参照願います。
関連し、3~5世紀の民族の様相を上トップ図にしましました。

日本史ランキング