邪馬台国の真相 9.邪馬台国は大分にあった

邪馬台国の真相 9.邪馬台国は大分にあった
邪馬台国の所在地について著名な説として、近畿ヤマト辺り、北九州博多辺り、北九州筑後辺り、北九州大分辺りがありますが、原文(魏志倭人伝)の内容に最も適合している女王国の場所を検討しますと、「はじめに」で紹介しましたように大分辺りになります。
そこで、大分で良いのか、今回はさらに検討します。一部繰り返しになりますが、要点は以下の6点です。
① 女王国は伊都国の南方、水行で10日、または陸行で1ヶ月の地にある。
② その女王国の東に海があり、その東に陸地がある。
③ 邪馬台国の住民は入れ墨をし、習俗が海南島の人々に似ている。
④ 南方にある女王国に従わない狗奴国の特徴。
⑤ 卑弥呼はツングース系
⑥ 邪馬台国と関連した地名が残っているか。
まず、「①の北九州からの南方水行10日」ですが、これに従うと、佐賀南部、福岡県筑後地方、大分しか残りません。
次に、「②東に海がある」ですが、この説明では、上記4場所のうち大分しか残りません。大分となると、北部の宇佐、あるいは南部の大分になりますが、宇佐説を支持している人が多い感じがします。
次に、「③の分身(刺青)をしている」ですが、習俗は海南島の人に似ているともあります。日本人はアイヌ系が35%、マレー系が30%、朝鮮半島由来ツングース系25%、そのた10%の民族です。この人たちで分身をし、かつ海南島の人に似ているのはマレー系だけです。事実、中国南部の越族資料館にその姿が下の画像に残されていています(下図参照)。

なお、本図については、ブログ仲間の邪馬台国探訪様が「古代倭人の姿」でも紹介しております。
次に、「➃の南方にある女王国に従わない狗奴国の特徴」ですが、邪馬台国を北九州一帯の連合した国と見ますと、熊本辺りが有力と思われます。熊本辺りは、弥生時代末期となり、稲作も導入され、豊かな地帯の一つだったと推定されます。また、熊本以南の山間部には縄文時代遺跡が多数残されており、アイヌ系の人たちも多かったところです。
すなわち、狗奴国は、弥生人のマレー系とアイヌ系の連合国であり、熊本の隣の鹿児島を含めて考えると、相当大きな勢力だったと推察されます。
そして、狗奴国が女王国に参加しなかった理由ですが、縄文系のアイヌ系とマレー系でまとまっており、もともと大乱はなく、女王国に参加する必要なかったことが挙げられます。
「⑤の卑弥呼はツングース系」ですが、卑弥呼は朝鮮半島由来のツングース系の女性シャーマンだったことを先に検討しました。すなわち、邪馬台国の支配者はツングース系となります。関連し、ツングース系の勢力分布について検討しますと、西九州よりも東側で勢力があったと推察されます。事実、その後の経過を見ても、大分、宮崎はツングース家王家のシンボルとも言える前方後円墳が多く認められます。
関連し、女王の居た邪馬台国の都を大分とすると、投馬国の場所がより明確になります。魏志倭人伝では、水行10日で邪馬台国、そして水行20日で投馬国、とあります。すなわち、邪馬台国の南に投馬国があったことになります。当時、宮崎は福岡に次いで弥生時代遺跡の多い地域で、南九州の中心地であったことは明白で、当時の状況と一致します。
最後に、「⑥邪馬台国と関連した地名が残っているか」ですが、大分を邪馬台国とすると、近くに耶馬溪(やばけい)という景勝地があります。Web検索しますと、「大分の耶馬溪と邪馬台国は関係がないのですか」という記事が出てきます。そしてWeb回答があり、「関係ない」という記事が出てきます。しかし、次のように考えることもできます。
先に漢字の読み方に北方読みと南方読みがあることを紹介しましたが、邪馬台国時代は、北方の魏と交流があり、北方読みとなります。そして、「やばけい」の「やば」は北方読みですので、邪馬台国時代からある名前の可能性があります。その意味で、耶馬溪と邪馬台国は関係しています。すなわち、「やばけい」も邪馬台国大分説の応援になる感じがします。その関係から観ると、大分のなかでも宇佐辺りが妥当と思われます。
以上の経過から、邪馬台国は大分の宇佐辺りにあったと結論されます。しかし、小国だったため、女王卑弥呼の死後、再度、領地争いの大乱が起きた感じがします。
事実、4世紀になると、マレー系は、朝鮮半島の同胞の百済の支援を受け、福岡・佐賀・熊本を中心とし倭国を創りました。
一方、女王国だったツングース系の末裔は、同じツングース系のヤマトの王家と連携し、大分・宮崎・鹿児島の東九州を支配し、ヤマト政権と連携し、その権力の象徴である前方後円墳を建造したと想像されます。
まとめますと、魏志倭人伝を普通に読みますと、北九州には弥生時代以来の多数の国があり、その中心となる邪馬台国は大分宇佐辺りにあったのが妥当となります。そして、大分にあった邪馬台国は、4世紀には西九州で新たに創られたマレー系倭国と別れ、ヤマトのツングース系王家の一部となり、東九州の支配者となっていったと想像されます。
関連し、以上の関係を上トップに示しました。

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