邪馬台国の真相 おわりに
「邪馬台国の真相」について記事アップを続けてきましたが、早いもので今回が最後です。ここで言いたかったことは、次の4点です。
1. 邪馬台国は大分にあったという説が妥当である。
2. 日本書紀は邪馬台国を故意に無視した。
3. 邪馬台国はツングース系民族支配の国であった。
4. 邪馬台国は魏志倭人伝にあるような戸数7万の大国では無かった。
まず、1の大分説ですが、魏志倭人伝を素直に読めば、ほぼ間違いないと想われます。多くの指摘が示すとおり、ヤマト説は矛盾だらけで論外です。
そして、その論外のヤマト説が残った理由として、邪馬台国(原本名:邪馬壹国やまいちこく)をヤマトに近い発音(やまたいこく)と混同したことに始まる感じがします。その後、「邪馬台国は無かった」(古田武彦 1971)という書籍が発表され、完全に否定された感じがします。
さらに、関連し、2の日本書紀の扱いです。日本書紀は「偉大な万世一系の天皇家」をテーマに創られた書物です。このため、現天皇家の前にあったツングース系王家、倭の武王で有名な倭国を無視するという方法が採られました。同じ理由で邪馬台国も無視されています。
次に、3の邪馬台国を支配した民族の推定です。福岡・佐賀は南方由来のマレー系が多く、一方、大分は朝鮮半島由来のツングース系が支配していたことが、その後の歴史経過や現在のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)から推察されます。女王卑弥呼が使った鬼道もツングース系由来であったことが推察されます。
すなわち邪馬台国は大分にあり、ツングース系民族が支配した国と思われます。
最後に、4の戸数の問題です。当時の人口は九州全体で40万人と推定されています。邪馬台国の戸数7万というのは、7万戸×4~5人=28~35万人になり、これはあり得ません。おそらく、大国に見せるために誇張して報告された感じがします。
すなわち、邪馬台国は、もともと大国ではなかったため、4世紀に百済の支援を受けたマレー系主体の北九州倭国が創られると、維持できなくなり、消えていったと思われます。
関連し、九州地域の前方後円墳建造(4~5世紀)が東九州に偏っていることから想像しますと、ツングース系は、4世紀、西九州のマレー系倭国と別れ、ヤマトのツングース系王家の一部となり、大分等の東九州の支配者になっていったと想われます。
なお、上と下の写真は我が菜園の花です。最近は花も楽しんでいます(笑)。
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