蘇我家の繁栄と滅亡 はじめに 継体天皇の出現と蘇我家の始まり
蘇我家の繁栄と滅亡 はじめに 継体天皇の出現と蘇我家の始まり
最近のDNA研究結果、継体天皇(在位:507-531年)が、朝鮮半島由来のツングース系王家を滅ぼし、初めてアイヌ系の天皇となったことが分かりました。詳しくはカテゴリの「天皇家はアイヌ系」を参照願います。なお、天皇呼称が始まったのは天武天皇からですが、一般表記にしたがい、ここでは継体王(大王)ではなく継体天皇と呼称します。
まず、継体天皇は、同時に、日本で初めて外交を行ない、百済から先進文化の象徴でもある文字と仏教の導入を行いました。
このとき、継体王の側近には、ツングース系王家との戦いで功のあったアイヌ系の豪族が集まっていましたが、おそらく地方の豪族であり、武力は優れても国家の財務を管理できる文人はいなかったと想われます。
また、その前のツングース系王家の文人は、記録がまったく残っていないところから想像しますと、逃げ隠れたか虐殺されたものと想われます。 そこで、継体天皇は、交流のあった先進国の百済から蘇我家を受け入れ、財務を担当させたのだと想われます。
当時、百済は、最新の仏教文化を南宋から取り寄せ、それらを隣国の新羅に普及するなど、朝鮮半島南部で先進国であったことが分かっています。 百済はもともと南中国由来の稲作民族マレー系民族中心の国ですので、南中国と関係があり、仏教や南方読み経典もそこから導入したものと想われます。
そして、日本へ文字の導入や仏教の導入を助けたのが百済出身の蘇我家と思われます。さらには、蘇我家は、天皇家に妃を出し、天皇家と親類関係を持ち、第一の権力者となりました。
その後、蘇我家は繁栄し、天皇家を超えるものとなり、その権力の横暴は許しがたいものとなり、乙巳(いっし)の変(645年、別名「大化の改新」)でクーデターに合い蘇我家は滅ぼされました。
しかし、一般に評価しますと、以上のことから6~7世紀は蘇我家の時代であったと想われます。
まとめますと、蘇我家は現天皇家時代の最初の権力者ですが、そのルーツや権力者への経過について詳しくは分かっていません。そこで、本課題「蘇我家の繁栄と滅亡」では、蘇我家の登場と繁栄と滅亡について詳しく検討していく予定です。
その主な課題は次のとおりです。
蘇我家の繁栄と滅亡(主題)
はじめに、継体天皇の出現と蘇我家の始まり(今回の報告)
1. 蘇我のルーツは百済
2. 蘇我は継体王新政権の財務を担当
3. 蘇我は文字を導入
4. 蘇我は仏教を導入
5. 蘇我は娘を大王(天皇)の妃に
6. 蘇我稲目の巨大な古墳
7. 蘇我と聖徳太子との関係
8. 蘇我とアイヌ系豪族との対立
9. 蘇我と中臣(後の藤原)の対立
おわりに
なお、上トップに、今回の小課題と蘇我家の繁栄と滅亡の関係を表示しました。