蘇我家の繁栄と滅亡 2.蘇我は継体王新政権の財務を担当
前回、蘇我は百済の文官で、日本に帰化したことを紹介しました。今回は、アイヌ系の継体天皇(在位:507-531年)という新政権の財務を担当したことについて、さらに詳しく検討します。
継体天皇時代の国統治の実態ははっきりしていませんが、地方それぞれに豪族が居て、継体天皇に国造という役職を与えられ地方の管理をするという、中央集権体制が行われていたと一般に言われております。
なお、Wikipediaによれば「国造制度」は以下のとおりです。
国造(くに の みやつこ、こくぞう、こくそう)は、古代日本の地方行政機構において、旧来からの氏姓制に基づき地方を治める官職の一種。また、その官職に就いた人を指す。大和朝廷が国の範囲を行政区分として認定し、その長として国造を認定した。 古墳時代より続くその地方を支配する地方豪族が任じられ、旧来と同様に、その国内で軍事権(国造軍)[1]、行政権、裁判権などを担った。しかし、大和朝廷に服し、任じられる立場へ変わった。(引用終了)
当然のことですが、それまでの王家は朝鮮半島由来ツングース系でしたので、地方豪族のほとんどはツングー系で、その関係からツングース系王家のシンボルだった前方後円墳をそれぞれの地域で建造し、栄華を誇っていたと思われます。
しかし、こうした豪族は継体天皇によって滅ぼされ、替って継体天皇に協力した者が豪族となり、国造の役職を得ていったことになります。
そして、豪族のなかでも大豪族と言われるのが物部氏や大友氏で、彼らは大連の役職を得て継体天皇の側近となり、継体天皇を中心とする中央集権体制が形成されていったと思われます。
当然のことですが、この中央集権体制に必要な役職として財務大臣が必要です。そこで、蘇我が財務大臣に即位するまでの経過を検討しますと次のとおりです。
百済の武寧王から王位就任のお祝いの鏡が503年に届けられたこと、しかし、継体王(在位:507-531年)が王位に就いたのは507年ことであったことを先に紹介しました。 これの就任の遅れは新王家開始のための文官が居なかったことも一つの理由と思われます。
まず、先にあったヤマトのツングース系王家は、北九州を除く西日本のほとんどを支配し、巨大な古墳をいくつも建造しました。このため、この巨大王家を支える文官が居たことは間違いありません。
しかし、王家の記録が何も残っていないことから想像しますと、巨大古墳建造を強行したツングース系王家に対する民衆の怒りは大きく、王家の武人だけでなく文官も殺され、王宮や文書は焼き払われたのが真相と思われます。
一方、継体天皇を支援した部族はアイヌ系とマレー系と判断されますが、彼らは武人や交易人としては使えるが、文字は知らず、財務をできる者は居なかったと思われます。
なお、当時の日本民族は、現在とほぼ同じとしますと、アイヌ系35%、南方由来マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%だったことになります。
そして、継体天皇がツングース系王家を倒した経過には百済の支援があったことは間違いありません。詳しくは拙ブログのカテゴリ「天皇はアイヌ系」を参照願います。
幸い、百済は朝鮮半島で中国南朝からの仏教導入を初め、最も進んでいた国家であり、かつ継体天皇の即位祝いを出すなどの支援国家でしたので、継体王が財務のできる文官派遣を依頼したのではないかと思われます。
当時の新蘇我財務大臣の業務について想像しますと次のような感じでしょうか。
まず、財務関係ですが、先に述べたように、財務の基本は国造制度だったと推察されます。すなわち、中央は地方のリーダーに国造という役職を与え、代わりに財務に必要な物資や人員調達をする制度です。蘇我は、財務大臣として、これらの記録を作り、地方を管理していたことになります。
また、財務関係の他に、蘇我は、百済文官時代の経験から、中国や朝鮮半島の状況に詳しく、アイヌ系新政権の近代化のために汗を流したと思われます。
おそらく、地方の豪族に役職を与えて服従させる国造制度の完成、五経博士を招き文字を導入、美しい仏像と関連し仏教の導入などを継体天皇に助言していったものと想われます。
そして、蘇我は財務大臣の役職を基に、地方の豪族の任命や財務調達と関係し、最後には、強力な権力を持ち、最後には天皇を超えるような権力者になっていったのではないかと思われます。
蘇我の繁栄については、次回から紹介していきますが、それらの様子と関連し、蘇我の財務大臣就任と繁栄の様子について上トップ図に示しました。