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蘇我家の繁栄と滅亡 6.蘇我は聖徳太子を育てた

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29~35代天皇と蘇我と聖徳太子の関係
蘇我家の繁栄と滅亡 6.蘇我は聖徳太子を育てた

 蘇我家の初代は蘇我高麗ですが、蘇我高麗は百済の文官で日本に帰化し財務大臣となり天皇に次ぐ地位を得ました。そして、2代目の蘇我稲目は、天皇家に妃を出し、その孫が天皇になり、第一の権力者になっていったことを紹介してきました。 

蘇我稲目は570年に没し、後を継いだのは3代目の馬子になります。天皇は33代推古天皇の時代となりました。推古天皇は初の女性天皇ですが、この女性天皇を補佐するため摂政となり、推古天皇に替って政治を行ったのが聖徳太子でした。

 関連し、今回は、聖徳太子と蘇我家の関係について検討します。さらには、聖徳太子は天皇以上の業績を残しましたが、なぜ天皇になれなかったことについても検討します。

 まず、推古天皇と聖徳太子と蘇我家の関係ですが、下図のとおりです。

聖徳太子、推古天皇、蘇我家の関係

この図は、前回紹介の図をさらに詳しくしたものですが、聖徳太子は、その父、母、推古天皇、ほとんどが蘇我家の血縁のものばかりに囲まれていることを示しています。すなわち、聖徳太子は、時の最大権力者の蘇我の影響を受けて育ち、かつ活動したことになります。 

そして、聖徳太子の業績については良く知られていますが、Wikipediaによれば「歴史家の評価」次のとおりです。

 歴史家の評価 関晃は次のように解説する。「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって、女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって、この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり、とくにその中の冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣、天皇記 国記 以下の史書の編纂などは、蘇我氏権力を否定し、律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが、これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである」[33]。 

田村圓澄は次のように解説する。「推古朝の政治について、聖徳太子と蘇我馬子との二頭政治であるとか、あるいは馬子の主導によって国政は推進されたとする見解があるが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が集中している事実から考えれば、推古朝の政治は太子によって指導されたとみるべきである」[34]。 内藤湖南は『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述された俀王多利思北孤による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる著述と推定している[注釈 24]。 (引用終了) 

 引用記事、特に関晃氏の評価ですが、「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治」という指摘は、上の家系図から見ても当たっています。 そして、冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣、仏教導入ですが、百済から来た蘇我の影響抜きには考えられません。

 蘇我家は、継体天皇(在位:507-531年)がアイヌ系新王家を始めたときからのときからの側近でした。一方、その時のアイヌ系王家は、それまでのツングース系王家を倒した経過から、新王家を始めるための文人はなく、そうした方面は百済の支援、すなわち蘇我を便りにし、蘇我を第一の側近とした経過がありました。 

そして、国家の近代化のために、文字の導入、仏教の導入、冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣等に、蘇我は陰ながら汗をながしたことになります。そして、そのモデルは百済だったことになります。

 関連し、蘇我家は、百済を通じて大陸文化導入の先端を行っており、上の家系図からも、おそらく聖徳太子は蘇我家のなかで育てられ、聖徳太子はそれらを見て育ったことは間違いありません。

 この聖徳太子の時代、蘇我家は蝦夷の時代で、聖徳太子とは従姉妹(いとこ)関係になります。聖徳太子が天皇で無かったにもかかわらず活躍し、かつ、法隆寺等の仏教寺院を建立できたのも時の権力者の蝦夷の支援があったためと判断されます。 

関連し、聖徳太子については、能力がありながら天皇なれなかったこと、本当に用明天皇の息子なのか等の疑問が出ています。これらのことについて検討しますと、次のとおりです。 

まず、最近のY染色体ハプログループ分類の結果、聖徳太子の男子子孫は天皇家と同じことが分かっておりますので、天皇家の子孫であることは間違いありません。 

次に、才能がありながらなぜ天皇になれなかったのかですが、当時は推古天皇の時代であり、天皇が没するまでは原則として替わることはできません。また、聖徳太子は病気で若くして無くなったとありますので、替わりようがありません。因みに、聖徳太子が亡くなったのは推古30年(622年、享年49)でした。 

聖徳太子に対する疑問への解答ポイントは、推古天皇という初めての女帝の即位にある感じです。推古天皇の前は 32代崇峻天皇 その前は31代用明天皇でいずれも短命でした。31代用明天皇は天然痘の病のため在位2年で崩御、32代崇峻天皇は蘇我馬子と対立し暗殺され在位5年で崩御しました。

 おそらく、この崇峻天皇の暗殺から反省が生まれ、蘇我馬子は、健康そうであった推古天皇(女帝)を33代天皇とし、これに聡明な聖徳太子を摂政に付け、権力闘争をしにくくし、背後で蘇我家の影響が働くようにしたのが真相ではないかと思われます。 

この結果、推古天皇時代は35年も続き、蘇我家が目標としたアイヌ系王家に始まる新王家の近代化は、聖徳太子の治世を通じてほぼ完成したのではないかと思われます。

関連し、聖徳太子と蘇我家の関係を上トップの表にまとめました。

 

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Posted byレインボー

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motomasaong
間抜けでは摂政は務まらない

 本当に聖徳太子が存在しなかったなら、推古天皇が既に即位していましたから、蘇我蝦夷が影の摂政として推古天皇の政治を補佐すれば良かったはずです。あえて聖徳太子の存在をでっち上げる必要などなかったはずです。
 聖徳太子が実際に存在しており、しかも摂政であったとすると、確かに蘇我蝦夷の全面的な援助と支援があったにせよ、愚かな傀儡ではなかったはずです。
 愚かな皇太子であったなら、摂政など出来たはずがありません。たとえ傀儡であったとしても、相当優秀でなければ務まりません。
 聖徳太子自身が法華経の解説本を発行しており、複数の僧侶が協力したとありますから、仏教の理解においては傑出した人物であった事が明らかです。
 ましてや、太子自身が天皇の実子であり、母親も蘇我氏の出ですから、帝王学及び蘇我氏の優れた財務、政治、仏教思想などの最高の教育を受けていたはずです。
 聖徳太子が制定したとされる業務は、ほとんど全てが仏教思想に由来しています。平和主義、仏教の理解と普及、法隆寺には釈迦の伝記物語が立体の塑像によって再現されており、文盲の人でも釈迦の伝記を知る事が出来るようになっています。2次元の映像以上の教育内容です。
 政治となれば汚い事も戦争もありますから、彼は晩年、政治を嫌ったとあります。純粋の賢明な思想家、仏教研究者、政治家であったのでしょう。
 彼の真意が反戦平和主義の仏教思想の流布であったなら、政治的権力を掌握するという蘇我家の発想とは競合せず、むしろ仏教を流布したかった蘇我家とも利害関係が一致していました。仏教を流布すればするほど、仏教を導入した蘇我氏の功績になりますから。
 蘇我氏と聖徳太子は政治家と優秀な学者、良心の思想家とみる事が可能であり、相互利益を得る関係だったのでしょう。近年、聖徳太子が存在しなかったと言う言説が流布されていますが、本当に存在しなかった人物像を構築する方が真っ赤な嘘ですから、それでは蘇我氏は支持を得られなかったはずです。天皇家は正当な日本の多数派であるアイヌ系ですから、マレー系の蘇我氏がいかに有能であろうとも、あくまでもアイヌ系の天皇の補佐として地位を得ていました。

  • 2023/07/21 (Fri) 11:09
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レインボー
レインボー
Re: motomasaong様、間抜けでは摂政は務まらない

motomasaong様
いつもコメント、ありがとうございます。

ご指摘の「蘇我氏と聖徳太子は政治家と優秀な学者、良心の思想家とみる事が可能であり、相互利益を得る関係だったのでしょう」ですが、まったく同感です。

蘇我氏は、田舎者だったアイヌ系王家の近代化のために、聖徳太子を育てたのだと思います。

  • 2023/07/22 (Sat) 10:30
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