蘇我家の繁栄と滅亡 6.蘇我は聖徳太子を育てた
蘇我家の初代は蘇我高麗ですが、蘇我高麗は百済の文官で日本に帰化し財務大臣となり天皇に次ぐ地位を得ました。そして、2代目の蘇我稲目は、天皇家に妃を出し、その孫が天皇になり、第一の権力者になっていったことを紹介してきました。
蘇我稲目は570年に没し、後を継いだのは3代目の馬子になります。天皇は33代推古天皇の時代となりました。推古天皇は初の女性天皇ですが、この女性天皇を補佐するため摂政となり、推古天皇に替って政治を行ったのが聖徳太子でした。
関連し、今回は、聖徳太子と蘇我家の関係について検討します。さらには、聖徳太子は天皇以上の業績を残しましたが、なぜ天皇になれなかったことについても検討します。
まず、推古天皇と聖徳太子と蘇我家の関係ですが、下図のとおりです。
この図は、前回紹介の図をさらに詳しくしたものですが、聖徳太子は、その父、母、推古天皇、ほとんどが蘇我家の血縁のものばかりに囲まれていることを示しています。すなわち、聖徳太子は、時の最大権力者の蘇我の影響を受けて育ち、かつ活動したことになります。
そして、聖徳太子の業績については良く知られていますが、Wikipediaによれば「歴史家の評価」次のとおりです。
歴史家の評価 関晃は次のように解説する。「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって、女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって、この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり、とくにその中の冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣、天皇記 国記 以下の史書の編纂などは、蘇我氏権力を否定し、律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが、これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである」[33]。
田村圓澄は次のように解説する。「推古朝の政治について、聖徳太子と蘇我馬子との二頭政治であるとか、あるいは馬子の主導によって国政は推進されたとする見解があるが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が集中している事実から考えれば、推古朝の政治は太子によって指導されたとみるべきである」[34]。 内藤湖南は『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述された俀王多利思北孤による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる著述と推定している[注釈 24]。 (引用終了)
引用記事、特に関晃氏の評価ですが、「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治」という指摘は、上の家系図から見ても当たっています。 そして、冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣、仏教導入ですが、百済から来た蘇我の影響抜きには考えられません。
蘇我家は、継体天皇(在位:507-531年)がアイヌ系新王家を始めたときからのときからの側近でした。一方、その時のアイヌ系王家は、それまでのツングース系王家を倒した経過から、新王家を始めるための文人はなく、そうした方面は百済の支援、すなわち蘇我を便りにし、蘇我を第一の側近とした経過がありました。
そして、国家の近代化のために、文字の導入、仏教の導入、冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣等に、蘇我は陰ながら汗をながしたことになります。そして、そのモデルは百済だったことになります。
関連し、蘇我家は、百済を通じて大陸文化導入の先端を行っており、上の家系図からも、おそらく聖徳太子は蘇我家のなかで育てられ、聖徳太子はそれらを見て育ったことは間違いありません。
この聖徳太子の時代、蘇我家は蝦夷の時代で、聖徳太子とは従姉妹(いとこ)関係になります。聖徳太子が天皇で無かったにもかかわらず活躍し、かつ、法隆寺等の仏教寺院を建立できたのも時の権力者の蝦夷の支援があったためと判断されます。
関連し、聖徳太子については、能力がありながら天皇なれなかったこと、本当に用明天皇の息子なのか等の疑問が出ています。これらのことについて検討しますと、次のとおりです。
まず、最近のY染色体ハプログループ分類の結果、聖徳太子の男子子孫は天皇家と同じことが分かっておりますので、天皇家の子孫であることは間違いありません。
次に、才能がありながらなぜ天皇になれなかったのかですが、当時は推古天皇の時代であり、天皇が没するまでは原則として替わることはできません。また、聖徳太子は病気で若くして無くなったとありますので、替わりようがありません。因みに、聖徳太子が亡くなったのは推古30年(622年、享年49)でした。
聖徳太子に対する疑問への解答ポイントは、推古天皇という初めての女帝の即位にある感じです。推古天皇の前は 32代崇峻天皇 その前は31代用明天皇でいずれも短命でした。31代用明天皇は天然痘の病のため在位2年で崩御、32代崇峻天皇は蘇我馬子と対立し暗殺され在位5年で崩御しました。
おそらく、この崇峻天皇の暗殺から反省が生まれ、蘇我馬子は、健康そうであった推古天皇(女帝)を33代天皇とし、これに聡明な聖徳太子を摂政に付け、権力闘争をしにくくし、背後で蘇我家の影響が働くようにしたのが真相ではないかと思われます。
この結果、推古天皇時代は35年も続き、蘇我家が目標としたアイヌ系王家に始まる新王家の近代化は、聖徳太子の治世を通じてほぼ完成したのではないかと思われます。
関連し、聖徳太子と蘇我家の関係を上トップの表にまとめました。