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蘇我家の繁栄と滅亡 7.蘇我稲目の巨大な古墳

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レインボー
著名な6世紀3古墳の墳丘長と埋葬者


蘇我家の繁栄と滅亡 7.蘇我稲目の巨大な古墳

蘇我の2代目稲目は、財務大臣かつ筆頭大臣であり、かつ娘を妃にし、天皇家と親類関係になり、絶大な権力を持つようになったことを紹介してきました。

今回は、その絶大な権力事例として、当時に建設された墳長318mの巨大前方後円墳「丸山古墳」について、これは蘇我稲目の墓だったことについて検討します。

前方後円墳は、朝鮮半島由来ツングース系王家の権威の象徴として建造されてきました。その結果、墳長200mを超える巨大古墳が3世紀後半~5世紀後半に31基も建造されました。なかでも墳長525mの仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は世界最大とも言われます。

しかし、その建造には多数の人員が必要であり、多数の人々が動員されました。この結果、民衆の怒りが増大し、巨大古墳建造を続けてきたツングース系王家がアイヌ系の継体天皇(在位:507-531年)に滅ぼされました。詳しくは、拙ブログのカテゴリ「天皇家はアイヌ系」を参照願います。そして、この反動で、6世紀前半には墳長が200mを超える巨大古墳の建造は消えました。

しかし、6世紀後半になると、巨大古墳が建造されました。それは上記の墳丘長318mの丸山古墳で、奈良では最大の古墳、その横穴式石室は日本最大、強大な権力者が葬られた感じがします。しかし、Web情報によれば、この巨大古墳の埋蔵者は蘇我稲目説を含め諸説ありますが、不明と言うから驚きです。

そこで、その埋葬者を6世紀後半の最大の権力者、かつ埋葬地域の奈良(ヤマト)を支配していた者として推察しますと、次のとおりです。

まず、その時代の継体天皇(大王)と家来(有力豪族)の関係は下表のとおりです。当時の政権運営は、大王と豪族の合議によって行われていました。天皇家(26~33代)と豪族の関係

6世紀の大王(天皇)は8名居ますが、10年以上の在位者は、継体(507~531、24年)、欣明(539~571、33年)、敏達(571~585、14年)、推古(592~627、37年)の4名です。

そして、蘇我家は、天皇から財務担当大臣に任命されていて、高麗(こま)→稲目(570年没)→馬子(626年没)と代を重ねました。稲目は二人の妃を欣明天皇と用明天皇に出し、天皇家と縁戚関係になっていることは先に紹介したとおりです。

一方、当時の有力豪族は、蘇我の他に物部と大伴が大連(軍事担当)として知られておりますが、6世紀にいずれも失脚しております。大伴氏は北九州磐井との戦い(磐井の乱 527年)で失敗し失脚したと言われています。一方、崇仏派の蘇我と廃仏派の物部の仏教導入に対する対立は有名で、この対立から戦争になり、物部は587年に滅ぼされました。

以上の経過から、丸山古墳建造時代(6世紀後半)の権力構造を見ますと、天皇に次ぐ権力者は蘇我家以外には考えられません。また、その後の推古天皇(摂政は聖徳)と蘇我家の関係からも、前回紹介のように、蘇我が権力者だったと見ることができます。

拙ブログでは、継体天皇は、ツングース系王家を滅ぼし、507年にアイヌ系新王家を始めたことを検討してきました。しかし、その王家は小さく、豪族の支えによって支えられてきました。

そして、天皇家が名実ともに最高位になったのは天武天皇(在位:673~686年)からです。天皇という呼称を使ったのも天武天皇からでした。

そこで、6世紀後半の巨大な丸山古墳の埋葬者ですが、以上の経過から、この時代のヤマト(奈良)の権力者は蘇我稲目であり、巨大な丸山古墳の埋葬者は彼以外に考えられません。

そこで、6世紀の著名な3古墳と埋葬者をまとめますと、下表のとおりで、継体天皇(在位:507-531年)の陵墓は墳丘長190mの今城塚古墳、北九州倭国の王と言われる磐井の墓は北九州最大の墳丘長135mの岩戸山古墳です。蘇我稲目は、これら2人の王を超える墳長318mの丸山古墳となります。

著名な6世紀の前方後円墳と埋蔵者

また、蘇我家(入鹿)は乙和の変(645年)で中大兄皇子らに滅ぼされました。このためか、その入鹿の埋葬場所はまだ特定できていません。

その前の馬子と蝦夷の墓は有名な石舞台古墳と言われております。これは、巨大な石室がむき出しになっていることで有名ですが、おそらく、これは蘇我家を恨む者がした仕業と思われます。

そして、その前の時代が蘇我稲目ですが、上記のように彼の墓は巨大な丸山古墳と推定されますが、彼の古墳も盗掘に会い、かつ、方墳部分がかなり破壊されていることが指摘されています。

この破壊は、彼の古墳は時の大王(天皇)を超えており、蘇我家が滅びた後、石舞台古墳と同じように蘇我家を恨む者に破壊され、その後、管理するものは無く放置された結果と思われます。

まとめますと、6世紀最大の古墳は、6世紀最大の権力者の蘇我稲目の墓でほぼ間違いないと思われます。その墓が盗掘や破壊を受けたのは、後に蘇我家は滅び、管理者がいなくなった結果と思われます。

関連し、6世紀建造古墳における著名な3基の古墳の紛糾長と埋葬者の関係について、上トップ図に示しました。

レインボー
Posted byレインボー

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motomasaong
元の木阿弥

 絶対君主制は、王侯貴族に根拠のない権威と権力を与えて99%の国民を従属させ、それによって王侯貴族、絶対君主の取り巻きが私腹を肥やす制度です。
 欧米白人の民主主義も、民主主義という名目さえあれば、国民からどんなに不当に搾取しても侵略戦争を仕掛けても構わないと言う独裁主義でしかありません。白人のエリートが神だという発想です。
 人間には誰しもエゴがありますから、自分さえ良ければ良いというエゴイズム礼賛があるかぎり、弱い者いじめと搾取は終わりません。
 巨大古墳、即ち富の独占に反発してツングースからアイヌに支配権が移りましたが、結局は同じ事の繰り返し。天武天皇が天皇と名乗ったのも、始皇帝が皇帝と名乗ったのも、カエサル以後がカエサルを名乗ったのも同じ事です。欧米の民主主義も「自由競争」を錦の御旗にして、自分達の不当な支配を正当化しています。

  • 2023/07/28 (Fri) 08:23
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レインボー
レインボー
Re: motomasaong 様、元の木阿弥

motomasaong 様
いつもコメント、ありがとうございます。

ご指摘の「巨大古墳、即ち富の独占に反発してツングースからアイヌに支配権が移りましたが、結局は同じ事の繰り返し」ですが、まったくその通りで、日本の歴史も同じことの繰り返しになっていることは否めません。

  • 2023/07/29 (Sat) 07:18
  • REPLY