蘇我家の繁栄と滅亡 8.蘇我とアイヌ系豪族との対立
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レインボー
蘇我家の繁栄と滅亡 8.蘇我とアイヌ系豪族との対立
蘇我家は百済出身の文官で、アイヌ系継体天皇(在位:507-531年)が、朝鮮半島由来のツングース系王家を滅ぼして新王朝を開いたときからの側近であり、財務大臣として使え、さらには、文字や仏教を導入し新王家の近代化に励み、かつ娘を天皇の妃にし、繁栄し、天皇を超えるような権力を持つようになったことを紹介してきました。
アイヌ系新王家が発足したとき、武力で支えた豪族として、物部、大伴の名前が知られております。彼らは、ツングース系王家の滅亡に関し、武力で功をあげ、大連(おおむらじ)という役職を得て、新天皇を支えました。しかし、彼らは文字を知らず、蘇我のような大臣にはなれませんでした。。
そして、その後、豪族の間に対立が生まれ、蘇我はそれを利用し、政敵を滅ぼしてきたと思われます。関連し、今回は、「蘇我とアイヌ系豪族との対立」について検討します。
まず、最初に弱体化したのが大伴でした。大伴とは天皇の大きな伴の意味のようで、天皇側近の警護者という感じでしょうか。
その弱体化の原因がはっきりしていませんが、継体天皇と磐井が対立した磐井の乱(527年)のとき、先発隊だったが失敗した。そこで、後発隊として物部が行き、勝利し、その結果、物部への信頼が高まり、大伴への信頼は低下した、というのがもっともらしい感じです。
しかし、以上のことは、奈良時代にできた古事記と日本書紀の情報であり、あまり信用できません。事実は、磐井の乱は、北九州倭国の磐井の君(王)と継体天皇の戦いであり、磐井の君は豪族ではありません。また、磐井の君は磐井の乱で滅びてはいません。真相は、北九州倭国は白村江の戦いで(663年)滅びたのが事実であり、それまで継続していました
日本書紀は日本の正史と言われておりますが、万世一系の偉大な天皇家を目標に創られた創作でした。事実は、現天皇家はアイヌ系継体天皇に始まり、以前にあったツングース系王家を無視し、北九州倭国の存在も無視した創作ものです。
そうしたことを踏まえると、大伴の弱体化の真相は、大伴と物部という2大将軍の戦いがあり、物部が勝利したのが真相かもしれません。事実、後に蘇我と物部が戦ったとき、大伴は蘇我の側に付いています。
次に物部の滅亡です。物部の名前は「もものふ(武士)」に由来するといわれます。
物部の滅亡は、587年の丁未の乱の結果として有名です。Wikipediaによれば次のとおりです。
丁未の乱(ていびのらん)は、飛鳥時代に起きた内乱である。丁未の変、丁未の役、物部守屋の変、衣摺の戦いともいう。仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏の守屋宗家が滅ぼされた。これ以後、物部氏は衰退した。(引用終了)
この戦いでは、聖徳太子のほか、先に弱体化した大伴が蘇我の陣に入っており、物部は四面楚歌の感じで、滅亡したのは当然の結果でした。
物部は、大伴失脚の後、軍事面では唯一の豪族という奢りがあったのではないかと思われます。しかし、天皇家を支配していたのは、仏教崇拝派で、反仏教派の物部氏は孤立し、最後には戦いで滅びたのではないかと思われます。
以上の結果、蘇我は多くの仲間に囲まれ、もはや敵対者はなく最大の権力者になった瞬間でした。
これらの関係を上トップ図に示しました。