「天皇家はアイヌ系」から観た日本の古代史の真相
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レインボー
「天皇家はアイヌ系」から観た日本の古代史の真相(古代史の問題)
前回、「天皇家はアイヌ系」は歴史的大発見であり、この結果、これまでの日本古代史の定説が否定されたことを紹介しました。
今回は、さらに追求し、日本古代史の真相にせまります。
前回の繰り返しになりますが、日本の古代史は、朝鮮半島由来の長身のツングース系民族が、鉄器と稲作で弥生時代を作り、その繁栄の結果、ヤマトに王家が創られ、巨大古墳がいくつも建造され、現天皇家はその王家の末裔であると、これまで理解されてきました。
しかし、DNA分類の結果、現天皇家はアイヌ系であることが分かり、これまでの古代史の理解は誤りであったことが明らかとなりました。
現天皇家のルーツが継体王(在位:507-531年)まで辿れることが多くの研究者によって支持されています。したがって、継体王以前は朝鮮半島由来ツングース系王家だったことになります。
因みに、このことには、次のような理由があります。
まず、日本書紀によれば、継体王のルーツは応神天皇の傍系の福井在住の豪族の末裔となっていますが、確かな証拠はありません。これまでの理解ですと応神天皇は朝鮮半島由来のツングース系民族の末裔となりますので、アイヌ系ではありません。
そして、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、継体王の男子末裔のすべてがアイヌ系であることが判明しました。Y染色体は父から男子の子供に伝わる染色体ですので、男子の子供がアイヌ系ですと父親もアイヌ系になる関係にあります。すなわち、継体王はアイヌ系であったことを示します。
次に、継体王は天皇として25代目となっていますが、その前の24代目武烈天皇は18歳という若さで亡くなっています。このことは、ツングース系王家最後の武烈天皇は継体王に若くして滅ぼされたことを暗示しています。
さらに、ツングース系王家が滅ぼされた理由ですが、5世紀は200mを超える巨大な前方後円墳が奈良と大阪地域で14基建造され、それらの5世紀の動員数は前半で2500万人、後半で500万人、合計3000万人です。詳しくは、「巨大古墳建造は民衆を疲弊させた」を参照願います。
すなわち、巨大古墳建造のために使役させられた民衆は疲弊し、その怒りは激しく、特に従事した多くのアイヌ系の怒りをかったと想像されます。
そして、民衆の怒りは、ツングース系王家に協力した文官も滅ばされたのが真相と思われます。このため、国を治めるための文官は消えました。そこで、新しく採用されたのが百済文官の蘇我であったことを「蘇我家の繁栄と滅亡」で紹介したところでした。
まとめますと、日本の古代史は、神武天皇に始まり、その王権が続いていたのではなく、最初は朝鮮半島由来の王権に始まり、その後、アイヌ系の継体王から新王家になったことを最近のDNA研究は明らかにしたと言えます。
簡単ですが、今回はこれで終わります。関連し、アイヌ系王家の誕生と古代史の真相について上トップ図にまとめました。

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