ツングース系王家の繁栄と滅亡 5.東九州の支配と大阪への遷都
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レインボー
ツングース系王家の繁栄と滅亡 5.東九州の支配と大阪への遷都
朝鮮半島由来ツングース系王家は、初め(2~3世紀)に出雲に王家を創り、その後さらなる支配地拡大のため、日本の中心地と思われるヤマトに3世紀後半に移動したこと、さらには、4世紀、構造船と馬を手に入れ、支配地を拡大したことを検討しました。
そして、5世紀となると、その王家の象徴的遺跡である前方後円墳の建造がヤマト(奈良)から河内(大阪)に移りました。
その移動の理由として、拙ブログでは、5世紀になると、馬と構造船で東九州や四国まで支配地が広がり、海岸部に都を構えた方が利便性が高いと判断し、内陸部のヤマトから海岸部の河内に移動したと想像しています。
その象徴的遺跡は、世界最大の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、次に大きい応神天応陵と思われます。これらは、ツングース系王家の中心地(大阪)に建造され、その時期は5世紀前半ですが、まさに馬と構造船が活躍した時期と場所が一致します。
また、前方後円墳はツングース系王家の象徴と思われますが、関連し、5世紀前半には吉備に300m以上の造山古墳、宮崎に西都原古墳群が建造されています。これらは、まさに、ツングース系王家の西支配の象徴的古墳と思われます。
さらには、東海地域、東山地域、北陸地域にもツングース系王家象徴の古墳(前方後円墳)は建造され、関東東北を除くこれらの地域にも支配は及んでいたと推察されます。
因みに、東九州支配の様子として、九州地域の3~5世紀に建造された100m以上の前方後円墳を下表に示しました。すべて東九州にあり、ツングース系王家の支配が東九州にも及んでいたと判断されます。
関連し、前方後円墳のルーツですが、次のようであったと推察されます。
まず、方墳がベースにありました。大陸の始皇帝陵は有名です。次に、ツングース系の高句麗と関連し、広開土王碑がありますが、これも方墳です。その南部にあります新羅関係の古墳もほとんどが方墳です。関連し、日本に渡来したツングース系民族も高句麗の子孫で、墳墓は方墳が主流だったと思われます。
日本にある弥生時代末期(2世紀)それら方墳の代表は出雲の四隅古墳と言われます。次いで、3世紀に前方後円墳が建造されますが、これらの先に前方後方墳も作られています。
これらのことから、おそらく、方墳が先にあり、続いて祭壇と方墳が合体した前方後方墳が建造され、次いで前方後円墳が作られたと判断されます。
なぜ前方後方墳ではなく前方後円墳が選ばれたかですが、おそらく、前方後円墳の方が人型に似て美しい、このため王の陵墓として相応しいと判断され、前方後円墳が流行したのではないかと思われます。詳しくは「前方後円墳のルーツはツングース系の方墳」を参照願います。
関連し、前方後円墳の形成過程を下図に示しました。
なお、ツングース系王家がヤマトから河内(大阪)へ中心地が変わった件については王朝交代説があります。「新河内王朝説」が、その代表と思われますが、ヤマト王朝が滅ぼされ新しい王朝が作られたという物的証拠はなく、この説は想像の域は出ていません。
まとめますと、古代の中心地がヤマトから大阪に移動した背景については、馬の導入や構造船の発達により支配地が拡大し、海岸部が支配の中心地となり、その結果、中心地を内陸のヤマトから海岸部の河内(大阪)に移したと見るのが妥当と思われます。
関連し、ヤマト王家が大阪(河内)に移動した様子について、上トップ図に示しました。