
ツングース系王家の繁栄と滅亡 7.北九州倭国の台頭
前回、大阪(河内)のツングース系王家は200m以上を超える巨大古墳をいくつも建造し、5世紀前半に頂点に達し、この結果、民衆が疲弊したことを紹介しました。そして、それら古墳の建造は5世紀後半になると著しく低下しましたが、このことは民衆の怒りも頂点に達したことを意味します。
当然のことですが、それらの怒りは権力者への反抗に発展します。その結果、6世紀前半にはツングース系王家は滅び、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)が権力者になりました。その意味で5世紀後半は、民衆の不満が高まり、革命前夜であったと思われます。
その革命の主役は継体王ですが、マレー系の百済と連合していた北九州倭国の存在も無視できません。因みに、百済の武寧王は、継体王の即位お祝いの鏡を502年に贈っています。この鏡では継体王は男弟王と呼ばれています。詳しくは「北九州倭国王と百済武寧王が継体王を支援した」を参照願います。
関連し、今回は「北九州倭国台頭」について検討し、次週は「アイヌ系継体王の台頭」について検討します。
まず、前方後方墳は、その様式はツングース系王家関連の墳墓と推定されています。このことを前前回記事「ツングース系王家の繁栄と滅亡 5」で紹介しましたが、この前方後方墳の100m以上の大型のものが九州地域では大分・宮崎・鹿児島の東九州地域に認められます。
このことは、ツングース系王家の影響は東九州まで達していたことが分かります。
一方、百済王家の歴史を記した「百済本記」によれば、百済と北九州倭国は連合しており、百済王家が北九州倭国に派遣した王子が倭王武となったことが示唆されております。そして、百済は大国の高句麗から圧迫を受けており、この百済を救うため、倭王武は中国南朝(宋)上表文を贈ったとあります。
関連し、倭王武については、中国南朝の歴史書(宋書倭国伝)にも書いてあり、倭国の五王が朝貢し、最後の倭王武に朝鮮半島南部を支配する「征東大将軍」の称号を478年に与えたとあります。
このことは、日本古代史における重要な事実ですが、日本の正史と言われる日本書記には言及されていません。その理由として何度も指摘しておりますが、日本書記は「万世一系の偉大な天皇家」を主題にしており、倭王武は天皇家とは関係ない王であったため無視されたものと思われます。
なお、日本の古代史では、この倭王武をヤマト朝廷の天皇の一人だという説がありますが、物的証拠は何もなく、この説は妄想の類いと思われます。因みに、当時のヤマト朝廷はツングース系王家であり、中国の南朝に百済の救済を求める理由はまったくありません。
以上のことをまとめますと、北九州には倭国があり、当然のことですが、ヤマトのツングース系と九州で対立していたことになります。そして、上記の前方後円墳建造地が示すように、ヤマト王家の支配は大分・宮崎・鹿児島の九州の東側だけだったと理解されます。
次に、百済と倭国の関係ですが、朝鮮半島北部の広開土王碑文によれば、4世紀末、倭国と百済の連合軍が高句麗を攻めてきたとありますので、この頃から倭国と百済は連携していたことになります。
百済と倭国の民族ですが、どちらもマレー系です。もともとは中国南部にいた稲作民族(越族)が北上し、朝鮮半島西部と北九州北部に水田稲作を広め発展してきたグループです。南朝に朝貢したのも、百済と倭国はもともと中国南部と関係があったためと思われます。
また、倭国の「倭」とは低身長民族への蔑称です。マレー系の多くは低身長であり、倭国の人々が倭族と中国人から言われていたのはそのためと思われます。この意味で、倭族は一般の日本人とは異なります。
一方、百済を「クダラ」と読むのは、「クダラ」はマレー語で兄弟という意味で、おそらく北九州のマレー系が百済の住民を「クダラ」と呼称するようになったためと推察されます。詳しくは「古代国家「くだら」の国名由来」を参照願います。
そして、5世紀になると、百済は南朝とさらに関係を強め、南朝仏教を導入するようになり、朝鮮半島で仏教先進国となりました。因みに隣国の新羅に仏教を伝えたのは百済です。日本の継体王(在位:507-531年)に仏教を伝えたのも百済です。
そして、北九州倭国のマレー系とヤマトのツングース系王家の関係ですが、朝鮮半島におけるツングース系とマレー系の対立が、そのまま日本にも持ち込まれたことになります。
まとめますと、ヤマトのツングース系王家と北九州のマレー系倭国は対立しており、その境は東九州と西九州の間であったと結論されます。
関連し、5世紀末の様子を上トップ図に示しました。