ツングース系王家の繁栄と滅亡 8.アイヌ系継体王の台頭
4 Comments
レインボー
ツングース系王家の繁栄と滅亡 8.アイヌ系継体王の台頭
弥生時代の後、古墳時代が来ました。このとき西日本の大半を支配したのが朝鮮半島由来のツングース系王家です。その巨大な王家が滅びるという大事件が、5世紀末期に起きました。その背景は、巨大古墳建造の強行というツングース系王家の残酷な政治に民衆の怒りが高まったことは間違いありません。
今回は、その滅亡と関連し、主役の継体王(在位:507-531年)の登場について検討します。
まず、継体王のルーツですが、現天皇家のルーツであることがほぼ明らかです。そして、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、アイヌ系であることも明らかです。さらには、継体王のルーツはアイヌ系で南九州の熊襲であったこと、その後援者は北九州倭国の「倭王武」(後の百済武寧王)であったことも、最近、分かってきました。
まず、継体王のルーツは南九州の熊襲であったことですが、最近、ズッコケオジサンがブログ「健康オタクの目移り」で「大隅半島は「建国神話の始まりの聖地」(7)肝等屯倉(かとうのみやけ)」を紹介しています。
その記事では、大隅半島の肝付町宮下(上トップ図参照)に継体天皇の子の安閑天皇の屯倉(天皇領)があったことを紹介し、継体王は熊襲(アイヌ系)であったことを示唆しております。
また、近くの宮崎県高千穂は天孫降臨の地として有名ですが、南九州一帯はもともと縄文遺跡の多いところで、アイヌ系が多かったことも事実です。
一方、弥生時代、ツングース系民族が朝鮮半島から平野部に移住し、水田稲作で発展しました。この結果、人口が増え、ツングース系王家が西日本を支配するようになりました。
そして、その王家は、民衆を動員し、多数の前方後円墳を建造しました。因みに、九州では、先に報告しましたように、その前方後円墳が、大分に2基、宮崎に6基、鹿児島に2基あります。これらの古墳建造と動員数の関係を宮崎の例で検討しますと次のとおりです。
宮崎では、古墳建造最盛期の5世紀前半に、100m以上の大古墳が、女狭穂塚古墳(墳長176m)、男狭穂塚古墳(墳長176m)、児屋根塚古墳(墳長110m)の3基が西都原古墳群で建造されています。これらを先に紹介しました墳長と動員数の関係(100mで約10万人の動員)から計算しますと、3基合計で約72万人の動員数となりました。
この頃の人口を、鬼頭宏(1996)の情報をもとに南九州地域の人口を算出しますと下図のとおりです。
南九州には古墳建造最盛期の400年頃12万人いたと推定されます。このうち宮崎には古墳時代遺跡数から約6万人居たと推定されます(下表参照)。
この6万人から古墳3基建造に72万人動員できるのか検討しますと、次のとおりです。
まず、3基の古墳建造期間を50年としますと、1年当り1.4万人の動員となります。農閑期に一人50日だけの動員とすると、実際の1年当りの動員数は約300人弱だけとなります。人口6万人のうち壮健な男性を2万人とすると300人を動員するというのは可能な数値と思われます。
どのような対象者だったのかが問題になります。対象者は中山間地に居るアイヌ系だけだったとすると、アイヌ系が40%の場合、2.4万人が対象者になります。このときはアイヌ系居住地の中山間地から平野部の西都原古墳への移動となり、移動手段や宿泊関係が問題になります。
特に、対象者がアイヌ系で中山間部から平野部(西都原)に移動しなくてはならなかった状況から推定しますと大変な事業だったと想像されます。
また、建造された古墳は上記の大古墳3基だけではありません。Wikipediaによれば、西都原古墳群は全体で、「高塚墳319基が現存し、その内訳は前方後円墳31基、方墳2基、円墳286基、他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている」、とあります。
そこで、ここに、アイヌ系の継体王がツングース系王家の横暴に抵抗する民衆の代表者(軍の将)として登場することに矛盾はありません。彼は、南九州のアイヌ系をまとめたと思われます。
また、北九州に倭王武が居ました。前回報告のように、彼は、朝鮮半島では百済と連携し、大国の高句麗と対立しました。一方、日本では、東側のツングース系王家と対立しました。
そして、倭王武が百済の武寧王となり、継体王の大王就任祝いの鏡を502年に送ったことが知られていますが、その前から二人が共同の敵のツングース系王家と対立し協力していたことは想像できます。
さらには九州の海岸部には海族の隼人(ハヤト)が居ました。ハヤトは縄文時代から居たマレー系で、海族とも呼ばれ、継体王に協力したと思われます。その最大の理由は、ツングース系王家が滅んだ後、宮崎を支配していたのはハヤトだったことです。詳しくは「古墳王家は宮崎から滅びた」を参照願います。
以上のことを総合しますと、継体王はアイヌ系の仲間をまとめ、北九州倭王武の支援を受け、さらにはマレー系隼人と連携し、宮崎・鹿児島のツングース系王家を滅ぼしたと理解されます。
そして、その後の経過は、日本書紀に準ずることができます。すなわち、神武天皇(実は継体王)は宮崎から東征し、ヤマトにアイヌ系王家を創ったことになります。
なお、継体王は福井出身という報告があります。しかし、これは、日本書紀の内容を反映したものです。拙ブログで何度も指摘していますように、日本書紀は現王家の都合のよいように創作したものです。
アイヌ系と関連し、縄文遺跡数を福井と南九州について下図に示しました。縄文人は、主として中山間部にアイヌ系、海岸部にマレー系が居たと推定されますが、その縄文時代遺跡数から、アイヌ系は福井に少なく南九州に多かったことが推察されます。
以上のことからまとめますと、アイヌ系継体王はアイヌ系であるが、そのルーツは熊襲のアイヌ系であり、現天皇家の初代にあたります。このことは、日本書記の神武天皇(実は継体王)の東征と矛盾なく理解することができます。
関連し、この5世紀の九州の様子を上トップ図に示しました。