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北九州倭国の繁栄と滅亡 4. 倭国の都は太宰府

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レインボー

太宰府の古代史

北九州倭国の繁栄と滅亡 4. 倭国の都は太宰府

前回、北九州倭国と百済はマレー系民族の国であり、その出身地は中国南部の越国であり、関連し、仲間の多い南朝に朝貢し、支援を求めていたらことを検討しました。

今回は、倭の五王のいた北九州倭国の都は太宰府であったこと、それは、日本で初めての条里制に基付いた都であったこと、そこへ南朝仏教を導入したこと、さらには、中国南部から装飾古墳を導入したこと、を検討します。

まず、太宰府の歴史ですが、Wikipediaによれば次のとおりです。

太宰府は、九州倭国の首都(倭京)であったと考えられることとする[注 37]。
名称
「太宰」の本来の意味は宰相(総理大臣)であり、「太宰府」とは「政治を行う所」つまり「首都」という意味に解釈することもできなくはない。宋に朝貢していた倭王武は皇帝の最高位の臣(太宰)を自称していた[注 38]。
太宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれていたが、「遠の朝廷」とは「遠くにある首都」という意味であり、遠くとは距離的に遠いだけでなく時間的に遠い、昔の首都という意味である[注 39][注 40]。
太宰府には「紫宸殿」「内裏」「朱雀門」といった地名字(あざ)が遺存し、太宰府に「天子の居処」のあったことをうかがわせる[注 41]。
太宰府政庁跡は2022年でも都府楼跡と呼ばれているが石碑には「都督府楼跡」とあり本来は都督府と呼ばれていた[17]。都督府とは中国の官職である都督に任ぜられた者が居る場所である。7世紀までは全国各地に評督が置かれていたことが判明しているが、評督とは都督の支配管理下にいる者である。(引用終了)

また、築城の経過のついては、「理化学年代と九州の遺跡」によれば、現在太宰府の都城遺跡は、放射性炭素(14Ⅽ)年代測定によって築城は卑弥呼時代の240年ごろから始まり、5世紀の「倭の五王」時代に大規模な改築がおこなわれたことが明らかです。

そして「ほんとうに太宰府は、九州王朝「倭国」の都(みやこ)だったのか」(古賀 2009)によれば、次のとおりです。

(略)・・・まだ研究途中ですが、七世初頭の九州王朝は太宰府に条坊都市を造り、その中心として通古賀地区扇屋敷に宮殿を造ったという仮説は有力のように思われます。そして、もしこの仮説が正しければ、太宰府を先行例として藤原宮・藤原京は太宰府条坊都市と同じ設計思想で造られたことになり、この視点から新たな問題が惹起されてくるのです。(引用終了)

すなわち、太宰府は、3世紀に築城が始まり、4世紀前には北九州倭国の都となり、5世紀の「倭の五王」時代に大規模な改築が行われ、7世紀前(聖徳太子時代)には仏教寺院が建造されていたことになります。

北九州倭国が滅びたのは白村江の戦いに敗れた663年と推定されますが、それまで、北九州倭国は、都を条里制の太宰府に置き、都城内には、王宮および寺院があったことになります。

関連し、これらの経過を上トップ図に示しました。

次に、装飾古墳壁画ですが、Wikipediaによれば次のとおりです。

装飾古墳(そうしょくこふん)は、日本の古墳のうち、内部の壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾のあるものの総称で、墳丘を持たない横穴墓も含まれる。大半が九州地方、特に福岡県、熊本県に集中している。福岡県桂川町の王塚古墳(国の特別史跡)、熊本県山鹿市のチブサン古墳などが有名である。
令和元年に確認された情報では、5世紀から7世紀ごろに九州の北・中部に集中して作られた。全国で723例ある[1]。九州に多い理由として、九州では飾られた死者として会葬者向けに作られ、近畿では隠されて作られる地域性と死生観の改革が仮説として指摘されている[2]。(引用終了)

そのルーツは中国南部であることは明らかで、4世紀の北九州の古墳から見ることができます。

そして、この種の古墳の中心地が北九州と関東地方で、ヤマトに極めて少ないことが分かっていますが、その理由は、次のとおりです。

この種の古墳を導入したのは、中国南朝と関係の深かった倭国と判断されます。そして、倭の五王時代の5世紀に最盛期を迎えますが、この様式の古墳はヤマトには僅かです。このことは、ヤマトのツングース系王家と北九州倭国が対立していたためと推察されます。詳しくは「北九州の装飾古墳ルーツ愚考」を参照願います。

関連し、その様子を下図に示しました。

装飾古墳のルーツ

まとめますと、太宰府は4世紀から倭国の都となり、条里制の構造に、王宮、仏教寺院がありました。このことは、太宰府の本格調査を行えば、さらに明らかになると思われます。また、中国南部から装飾古墳を導入したのも倭国になります。

この装飾古墳がヤマトに広がらなかったのはヤマトのツングース系王家と北九州倭国が対立していたためであり、このことも、北九州倭国の存在を示すものと思われます。


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Posted byレインボー

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motomasaong
歴史の変遷と隠蔽

 ヨーロッパは古代の建造物を内部改造して外観は温存し、価値ある物を大切にするという文化を持っています。
 ところが日本人、特に日本の自民党政府は、古い建物を壊して癒着している土建屋に金を回して新しい何の魅力も価値もない建造物を作らせてきました。東京の歌舞伎座も右翼の石原慎太郎によって見る影もないただのビルになりました。
 古都京都もビルだらけで何の魅力もありません。皮肉にも、馬籠のようなお金のない奥地でだけ、昔ながらの由緒ある街並みが温存されています。
 日本人は豊臣秀吉のころから朝鮮の貴重な建造物などを徹底的に破壊してきました。トルコはコンスタンティノープルを占領しましたが、アヤソフィアを大切に保存し、対になるアフメトモスクを作って魅力的な文化を構築しました。
 古代から日本の支配者達は、遺跡の類を徹底的に破壊した上、歴史を歪曲、捏造して自分達に都合のいい嘘を流布してきたのでしょうか?

  • 2024/02/09 (Fri) 17:40
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レインボー
レインボー
Re:motomasaong様、 歴史の変遷と隠蔽

motomasaong 様
いつもコメント、ありがとうございます。

ご指摘の「古代から日本の支配者達は、遺跡の類を徹底的に破壊した上、歴史を歪曲、捏造して自分達に都合のいい嘘を流布してきたのでしょうか?」ですが、その通りだと思われます。

現天皇家が作った日本書記ですが、「歴史を歪曲、捏造して自分達に都合のいい嘘」であることは間違いありません。

拙ブログでは、今回、中国南朝の歴史書にある倭の五王について検討していますが、日本の正史と言われる日本書記には記述がありません。まさに、「歴史を歪曲、捏造して自分達に都合のいい嘘」を書いているのが日本書記です。

  • 2024/02/10 (Sat) 07:12
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