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北九州倭国の繁栄と滅亡 5. 倭王「武」の実在と活躍

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レインボー

北九州倭国王武の活躍

北九州倭国の繁栄と滅亡 5. 倭王「武」の実在と活躍

「北九州倭国の繁栄と滅亡」についてまとめていますが、「北九州倭国の繁栄」の頂点は倭王「武」の時代だったと思われます。

関連し、今回は、倭の五王の最後の王「武」について、偉大な王であったことについて検討します。

まず、前々回、倭王「武」は、北九州倭国と百済の連合のために北九州倭国に派遣された百済の王子であり、後の百済の武寧王(502年即位)で、502年に継体王の即位祝いの鏡を送ったことを指摘しました。

このように、武寧王についてはよく知られております。しかし、もと北九州倭国の倭王「武」であったことについては、倭国研究者の多くが指摘しておりますが、日本書記に記述がないためか、あまり知られておりません。

前回報告のとおり、北九州倭国は、中国南朝と交易し、太宰府に我が国最初の条里制の都を築きました。さらには、百済と連合し北の高句麗と戦い、かつ東のツングース系王家(ヤマト朝廷)とも戦いました。

東のツングース系王家(ヤマト朝廷)と北九州倭国との戦いは、まだ史実が研究されていませんが、大和朝廷のシンボルと言われる4~5世紀の前方後円の建造分布から検討しますと、次のとおりです。

九州には、多数の墳前方後円墳が建造されていますが、この時代(4~5世紀)、100m以上前方後円墳があるのは、大分・宮崎・鹿児島の3県だけです。なかでも宮崎の西都原古墳群は有名です。詳しくは「古墳王家は宮崎から滅びた」を参照願います。

この前方後円墳の分布から、ヤマト朝廷の影響は東九州までで、福岡・佐賀・熊本を中心とする西九州は倭国の領域だったと判断されます。

おそらく、両者の間で勢力争いがあったと思われますが、日本の正史と言われる日本書記には、「万世一系の偉大な天皇家」を主題にしている関係から、ツングース系王家と北九州倭国については無視され、これらのことは書かれておりません。

そして、北九州倭国の王のなかでも倭王「武」が最も偉大であったことについては、中国南朝の歴史書の記述だけでなく、残された日本の古代史遺跡にも垣間見ることができます。

まず、熊本の江田船山古墳と埼玉古墳出土の鉄剣文字です。それらの鉄剣には、「エカタシロ(通称ワカタケル)大王」と言う名前が出てきます。この名前の由来については、まだ解明が進んでいませんが、その時代の偉大な大王だったことから想像すると次のとおりです。

まず、5世紀という時代の偉大な大王ですが、北九州倭国王かヤマトのツングース系王家の大王以外に考えられません。しかし、それらの鉄剣が出土した場所から推定しますと、熊本は北九州倭国の支配地ですので、北九州倭国王の可能性が高くなります。

また、埼玉ですが、この地はヤマトとは別の関東王家が支配していた場所です。さらには関東には北九州と同じく装飾古墳が多数認められることから、前回紹介したように北九州倭国の影響が感じられます。

そこで、鉄剣碑文の名前「エカタシロ大王」ですが、これを北九州倭国で使われていたマレー語で読むと、慈悲深い者(大王)となります。詳しくは「エカタシロ(ワカタケル)大王の意味」を参照願います。

さらには、常陸国風土記に、倭武王について、「「天下を巡狩した」「海北(朝鮮半島)を征平す」とありますが、この内容は北九州倭国武のことで、倭王武が関東にも来ていたと思われます。詳しくは「北九州の倭王「武」は関東に来ていた」を参照願います。

以上のことをまとめますと、北九州倭国の倭王「武」は、その偉大さ故に、関東にも知られ、常陸国風土記にも登場していたことになります。

さらには、現天皇家ルーツの継体王(在位:507-531年)は、南九州出身のアイヌ系ですが、宮崎・鹿児島・大分に居たツングース系王家を滅ぼし、その後、東征し、ヤマトのツングース系王家を滅ぼしました。

強大なツングース系王家でしたので、その戦いで勝利することは簡単ではありません。そこで、その勝利の背景には北九州倭国の支援があったことが考えられます。また、関連し、その北九州倭国の支援については関東にまで響き渡り、倭王「武」は「エカタシロ大王」として知られるようになったとも考えられます。


関連し、倭王「武」の活躍について上トップ図に示しました。

また、武寧王が継体王に贈った大王就任祝いの鏡(和歌山県の隅田八幡神社の人物画像鏡)を下図に示しました。

武寧王が継体王に贈った大王就任祝いの鏡

まとめますと、倭王「武」は、北九州倭国の王で後に武寧王(502年)となりましたが、海を渡り大国「高句麗」と戦いました。また、東ではヤマトのツングース系王家と戦い、継体王に協力しました。さらには、鉄剣碑文でエカタシロ大王(慈悲深い大王)として登場する大王でした。これらのことは日本書記に出てきませんが、いずれ明らかになると確信しております。


レインボー
Posted byレインボー

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MOKUZOUSI

こんばんは

北九州に古代にお説のような王朝があったのは確かだと思います
倭の五王の系譜と日本書紀の系譜が一致しないのもそう考えると納得がいきます
それと任那日本府も倭国の一部として朝鮮半島南部で強い勢力を持っていたと思います
また、先日NHK で放送していましたがタイ国東北部の少数民族の遺伝子が日本人と共通する部分があるとかも面白く感じます

など時々考えてしまいます

  • 2024/02/15 (Thu) 17:24
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レインボー
レインボー
Re: MOKUZOUSI様、タイ国東北部の少数民族の遺伝子が日本人と共通する部分

MOKUZOUSI様

いつもコメント、ありがとうございます。

ご指摘の「タイ国東北部の少数民族の遺伝子が日本人と共通する部分」情報ですが、ありがとうございます。

また、「任那日本府も倭国の一部として朝鮮半島南部で強い勢力を持っていた」ですが、
これは、北九州倭国の支配地だったと考えることができます
草々

  • 2024/02/16 (Fri) 07:41
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