fc2ブログ

北九州倭国の繁栄と滅亡 6. 継体王への協力と対立

3 Comments
レインボー

磐井の乱の真相


北九州倭国の繁栄と滅亡 6. 継体王への協力と対立

前回、北九州倭国の王だった倭王武は、継体王(在位:507-531年)を支援し、共同してツングース系王家を滅ぼしたこと、その後、百済に帰り、502年、百済の武寧王となり、かつ、継体王に大王就任祝いの鏡を贈ったことを紹介しました。

今回は、倭王武の後任となった磐井の君(君=王)とヤマトの王となったアイヌ系の継体王との関係について、有名な磐井の乱(527年)を中心に検討します。

まず、継体王ですが、強大なツングース系王家を502年に滅ぼした直後ですが、アイヌ系には王家を経営する事務官が居なかった問題があり、百済から事務官(蘇我)を迎え、王家が始まったのは507年からです。

新王としての継体王の権力は強くなく、政治は豪族の合意を基に進められました。詳しくは「蘇我家の繁栄と滅亡 2.蘇我は継体王新政権の財務を担当」を参照願います。

また、継体王は、九州でツングース系王家と戦ったとき北九州の倭王武の支援を得、その後502年に大王就任祝いの鏡を、倭王武から百済の王になった武寧王から贈られました。その鏡には継体王は男弟王と呼ばれておりますが、そのことから想像しますと、継体王は百済の武寧王を後見人としていたと思われます。

一方、磐井の君ですが、北九州倭国を引き継いだ関係から、倭国王として朝鮮半島南部諸国(百済、新羅、加羅等)と外交していました。その意味で、磐井の君も武寧王を後見人としていたと思われます。

その武寧王が523年に亡くなりましたが、その結果、二人の王を抑える者が無くなり、継体王と磐井の君は対立するようになりました。

両者の対立は、Wikipediaによれば次のとおりです。

磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体天皇21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を筑紫君磐井(『日本書紀』は筑紫国造だったとする)がはばみ、翌528年(継体天皇22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争。(引用終了)

すなわち、日本書紀をそのまま理解すれば、磐井の君(北九州倭国王)が新羅と連携し、継体王の朝鮮半島南部支配を妨害したということになります。

しかし、これは言いがかりで、当時、北九州倭国という国があり、その国が新羅と外交するのは自由です。また、ヤマト朝廷が朝鮮半島南部支配のために出兵したというのも理由はありません。当時、継体王は新国家建設のため、そのような余裕はありませんでした。

継体王は、北九州倭国を取り込み、その外交権益を含め自分の支配下に置こうとしたのが真相と思われます。そして、その結果ですが、日本書紀では磐井の君は滅ぼされたことになっていますが、逃げ延びたのが真相と思われます。その理由は次のとおりです。

当時、北九州倭国がその後も続いていました。筑紫国風土記には、ヤマト軍が突然襲ってきたが筑紫の君は大分の方に逃げ無事だったことが書かれています。また、ヤマト軍の大将の大伴は、その後失脚したことから想像しますと、磐井の乱は戦乱ではなく、ヤマト軍の失敗であったのが真相と思われます。

北九州倭国と継体王のヤマト国の力を比較しますと、北九州倭国は、豊かな米産地と言われる佐賀・福岡・熊本の平野部を支配し、豊かでした。

一方、ヤマトの継体王ですが、豪族政治であり、軍部は大伴氏や物部氏が握っており、継体王に権力は集中していなかった問題があります。詳しくは「蘇我家の繁栄と滅亡 8.蘇我とアイヌ系豪族との対立」を参照願います。

一方、磐井の居住地ですが、彼の墓は福岡県八女市にある「岩戸山古墳」と言われています。これは、墳丘135m(古墳総長:170メートル以上)の九州最大の前方後円墳です。ここから想像しますと、磐井の君の支配地の中心は北九州最大の米産地と言われる筑後平野だったと思われます。

この地は人口も多く、九州最大と言われる古墳建造を可能にしたと思われます。また、ヤマト軍が攻めてきたのもこの場所のようですので、都だった太宰府を離れ、磐井の君は新たに第2の都を創った可能性があります。しかし、この方面はほとんど研究されていません。

そして、次回報告のように、北九州倭国は、白村江の戦い(663年)で大敗して滅びましたが、そのときまで続きました。

以上のように、日本書紀の「磐井の乱」の記述は背景や結果については矛盾が多くあります。関連し、この問題について、Wikipediaも次の解説を末尾に付け加えています。

磐井の乱は本当に「反乱」だったのか?

磐井の乱が本当に「反乱」だったのかという点については、『日本書紀』の史観によってみるならば、確かに反乱といって良い。

磐井が筑紫国造という地位にあるからである。 ヤマト政権下で地方統治を任されたのが国造であり、その地位にある磐井が、新羅に通じ、ヤマト政権に反抗したのであるから、まぎれのない反乱といえる。

だが、国造制の成立をいつと考えるかで、磐井の乱の性格は全く違ったものになってくる。 例えば、五世紀後半ごろから施行されていったとする説に従うならば、六世紀前半の段階で磐井が筑紫国造であったと考えることに問題はない。

しかし、最近言われ出した七世紀前半ごろに整備された制度とするならば、磐井は六世紀前半には国造ではなく、九州北部を拠点にしていた地方豪族ということになる。 (『日本書紀』では「筑紫国造磐井」と記しているが、『古事記』、『筑後国風土記』は「竺紫君石井」や「筑紫君磐井」としており、ヤマト政権に従属した国造ではなく独立した地方豪族としている。新羅が筑紫国造磐井に賄賂を送って、ヤマト政権に反乱を起こしたというのは『日本書紀』のみが伝える所伝であって、『古事記』、『筑後国風土記』、『三国史記』などの史書からは、ヤマト政権が筑紫君磐井に先制攻撃を仕掛けて征服したことが読み取れる。) つまり、九州の北部を中心に勢力を張り、玄界灘の海上権を支配していた豪族である。 ヤマト政権としてみれば、朝鮮半島へのルートとして、九州北部は重要であり、支配下に置くことが出来ない場合には、その地域の豪族たちとの友好関係は不可欠のものであった。

このような友好関係で結ばれていたのが磐井とヤマト政権の実態だとすると、磐井がヤマト政権と対抗するため新羅と手を結んだとしても、それは畿内と九州の氏族がそれぞれの国家形成を目指す戦争であって、反乱とはいえなくなってくるのである[1]。(Wikipediano引用終了)

関連し、繰り返しになりますが、拙ブログでは、ヤマトの継体王はアイヌ系の新王朝であり、そのとき西日本全体までは支配していないことを指摘してきました。

天皇家が北九州を含む西日本全体を支配するようになったのは、壬申の乱(672年)に勝利した天武天皇からで、その意味で、日本古代史では継体王が実力以上に評価されている問題があります。詳しくは「天皇中心政治は大宝律令制定後に実働した」を参照願います。

まとめますと、日本史で磐井の乱と言われる戦いは、ヤマトの新アイヌ系王家が北九州倭国を支配するために行った戦争であり、決着はつかなかった、と観るのが妥当と思われます。

関連し、磐井の墓(岩戸山古墳)の場所と関連事項を上トップ図に示しました。


日本史ランキング

レインボー
Posted byレインボー

Comments 3

There are no comments yet.
motomasaong
航路の掌握は全世界的な重要課題だった。

 コロンブスが西に向けて出港したのは、インドへの西回りの航路を確保するためでした。スエズ運河も重要な航路であり、日本より文化も富も優れていた朝鮮半島への航路を確保するのは脆弱だった継体王には必須だったのでしょう。
 継体王は東部から進軍したわけであり、兵士は長距離の移動で疲弊し、兵糧の運搬も問題になります。一方、磐井君は地元に確たる勢力を所有していたわけですから、長期戦になれば圧倒的に有利です。
 従って、継体王としては、奇襲作戦によりあわよくば磐井君を殺害して国家を乗っ取ろうと考えていたのでしょうが、その最大の目的は航路の確保だったと考えられます。
 そう考えれば、奇襲によって磐井君を遷都させ、はるばるやってきて北九州と航路を奪う事に成功したのですから、侵略戦争の目的の半分は達成できたと考えられます。
 しかも、その後も大宰府は奪い返されずにヤマト朝廷が支配し続けていますから、継体王は単独では強力な中央集権体制は築けなかったとしても、相当強力な軍事国家体制を構築していたと思われます。また、さもなければツングース系の強大な権力と軍隊を打ち破る事は出来なかったはずです。

  • 2024/02/26 (Mon) 17:19
  • REPLY
-
管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

  • 2024/02/27 (Tue) 00:41
  • REPLY
レインボー
レインボー
Re: motomasaong様、航路の掌握は全世界的な重要課題だった。

motomasaong様
いつもコメント、ありがとうございます。

「継体王は単独では強力な中央集権体制は築けなかったとしても、相当強力な軍事国家体制を構築していたと思われます」ですが、拙ブログでは、継体王の軍事力は強くなかったこと、このため、北九州倭国の協力を得て権力を奪取できたことを指摘しています。

この方面は、研究が進めばさらに明らかになっていくと思われます。

  • 2024/02/27 (Tue) 07:54
  • REPLY