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北九州倭国の繁栄と滅亡 7. 倭国は白村江の戦いで滅んだ

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レインボー



白村江の戦いの真相

北九州倭国の繁栄と滅亡 7. 倭国は白村江の戦いで滅んだ

前回まで、北九州倭国は、マレー系稲作民族を中心に4世紀前半に創建され、倭の五王の時代の最後の倭王武時代(5C末)に最盛期を迎え、そして、磐井の乱(528年)のときも新ヤマト王家とも戦い滅びなかったことを検討してきました。

今回は、「北九州倭国の繁栄と滅亡」の最後になりますが 倭国は白村江の戦いで大敗し滅んだことについて検討します。

まず、北九州倭国は、中国南部の越国マレー系民族中心の国です。また、朝鮮半島には同じマレー系民族の国として百済がありました。百済(くだら)の「くだら」の呼称はマレー語のKudara(兄弟)に由来することを指摘してきましたが、北九州倭国と百済は、まさに運命共同体だったと理解できます。詳しくは「古代国家「くだら」の国名由来」を参照願います。

この百済と北九州倭国が滅びる経過ですが、初めに、百済が、唐・新羅連合軍攻められ、660年に滅びました。そこで、北九州倭国は百済救援に向かい白村江の戦いで唐・百済連合軍に大敗し、倭国王も捉えられ、滅びました。正式には665年戦後処理会議が太宰府であり、この年に北九州倭国は滅びたことになります。

そこで問題になるのが、日本書紀におけるヤマト王家と唐・新羅連合軍との関係です。日本書紀では百済支援に向かったが破れたとあります。そして、その具体的内容について見ると、唐と同じ船舶170余隻(船員1万人、1隻当り約60人)使ったとありますが、当時の国力からして、そのような多数の大型船を持っていたとは考えられません。

一方、古事記等の記述によれば、捉えられたのは北九州倭国王の「筑紫君薩野馬(つくしのきみさちやま)」や北九州倭国の僧侶や農民であり、ヤマト軍はまったく入っていません。さらには、当時、派遣されていた遣唐使も無事帰国することができ、北九州で行われた戦後処理でも賠償なしとなっています。

このことは、白村江の戦いに参加したのは北九州倭国軍だけ、ヤマトの王家は、戦わずして北九州倭国を滅ぼしたことになります。

詳しくは「白村江の戦いの内容は虚構」を参照願います。

関連し、その内容を下表に示しました。

日本書記は創作、白村江の戦いの内容は虚構

まとめますと、遣唐使や唐の情報によれば、「白村江の戦い」は唐・新羅連合軍と北九州倭国軍の戦いであり、この戦いで北九州倭国は大敗し滅びました。一方、ヤマトの倭国軍は戦いに加わらなかったことになります。

そこで問題になるのが、このような北九州倭国が滅んだという重要なことが日本書紀には書かれていないことになります。このことについては、次回の「おわりに」で検討します。

また、関連し、「白村江の戦いの真相」について、上トップ図に示しました。



レインボー
Posted byレインボー

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佐々木富士八

いつも思いますが
ものすごい研究成果に目からうろこ状態でこちらのブログの投稿は
私には新発見だらけです。
これからも楽しみにしています\(^o^)/

ランキングもポチポチっとしてゆきます(^_-)-☆

  • 2024/03/07 (Thu) 01:15
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レインボー
レインボー
Re: 佐々木富士八先生、感謝

佐々木富士八先生

「ものすごい研究成果に目からうろこ状態」とは嬉しいです。励みになります。
これからもよろしくお願いします。
草々

  • 2024/03/07 (Thu) 07:55
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