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ストーンサークルは縄文カレンダーと思われる

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レインボー
ストーンサークルは縄文カレンダー

北海道と東北地方に縄文時代の遺跡としてストーンサークルが知られておりますが、その目的は諸説があり、謎に包まれています。今回は、素人ながら、この謎に迫ります(笑)。

縄文時代は2万年前から3千年前頃までありますが、そのストーンサークルの作成時期は晩期、すなわち4千年前から3千年前頃に集中しております。この時期は、拙ブログでも指摘しておりますが、地球寒冷化の影響で北海道と東北は食料不足となった時代で、縄文時代衰退期でもあります。

豊かな縄文時代を象徴する三内丸山遺跡が衰退し放棄された時期でもあります。言い換えますと、食料不足となり、食料獲得が最大の関心ごとだった時代と思われます。

ストーンサークルの用途については、祭祀儀礼の場説、墓地説、天体観測場説が出ておりますが、いずれもストーンサークルのすべてを説明する説とはなっておりません。

そこで、北海道・東北の寒冷化した時代背景を考えますと、食料確保と関係した縄文カレンダーなのではないかと思われます。その理由として次の事が考えられます。

1. 地球の寒冷化に伴い食料確保が重要課題であり、畑作物や山菜収穫時期、鮭の来る時期などをきちんと知る必要があった。
2. ストーンサークル設計士がいて、朝日の出る位置や夕日の沈む位置から夏至や冬至など季節が分かるように設計していたが、それは同時に集落のカレンダーにもなっていた。
3. ストーンサークルに似たものに小型の環状列石や配石遺構が残されているが、これを小型カレンダーとすると、すべてのストーンサークルが縄文カレンダーにあてはまる。
4. 大きなストーンサークルは集落のモニュメント(祭祀場)の場にもなった。

そこで、ウエブサイトで関係資料を調べますと、アイヌ研究にも従事したN. G. マンローという人がストーンサークルは縄文カレンダーであると指摘しています。詳しくは、「ひろちか先生の縄文時代のホライズン・カレンダー」http://www.543life.com/campus48.htmlをご覧ください。

結論ですが、縄文人は、このように集落の側に共同カレンダーを作り、農作物などの食料を確保し、困難な寒冷化時代を乗り切ったのだと思います。そして、その構造から、それは太陽暦で、1年を365.25日としていた、と思われます。その意味で、日本の技術立国の姿が、このあたりからも見えてくると想像しています(笑)。

なお、上の図は、ストーンサークルを暦として使っているマンガ絵です。笑っていただければ幸いです。

また、下の写真は、私が訪問したマダガスカル海岸の夕日風景です。縄文時代においては、このような太陽の出入りの位置から食料確保に重要なカレンダーを作っていたと思われます。

マダガスカル西海岸の日の入り


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レインボー
Posted byレインボー

Comments 32

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大川原英智

こんにちは。

日頃から何気なしに浸かっている言葉「いただきます」

時代も国境も超えた、味わい深い大切な言葉なのですね。

僕も感謝の気持ち忘れずに、この言葉を使っていきたいと思います。

  • 2017/08/11 (Fri) 08:04
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レインボー
Re: 大川原英智様、「いただきます」

大川原英智様
いつも貴重なコメント、ありがとうございます。

「いただきます」ですが、私も初めて知ったしだいです。
それを知ってからは、食事前の「いただきます」は欠かせません(笑)。
草々


> こんにちは。
>
> 日頃から何気なしに浸かっている言葉「いただきます」
>
> 時代も国境も超えた、味わい深い大切な言葉なのですね。
>
> 僕も感謝の気持ち忘れずに、この言葉を使っていきたいと思います。

  • 2017/08/11 (Fri) 18:35
  • REPLY
やかたしんぞう
金生遺跡の冬至祭祀

先ほどは失礼しました。場所を間違えて投稿してしまいました。
縄文後期とされている金生遺跡では、くさび状の配石遺構の先端 延長上に冬至の日の出があると分ったそうです。
冬至の夕日は甲斐駒ヶ岳の右肩に沈むことは以前から云われていました。
今回冬至の日の出が石組みの先が示す方向-- 遺跡公園の整備でモニュメントとして作られた石棒と大木で遮られて日の出る東は大変見にくい状況にされてしまった --から太陽が昇ることが分かり、発掘の時に見つかった遺物から冬至の祭祀の様子が推定できることになりました。
すなわち、冬至の日の出を確認して夕日が甲斐駒ヶ岳右肩に沈むと、それからは太陽の再生を願いイノシシの犠牲祭が行われただろうこと、その後冬至から回復した太陽の出を願い、石組の端に厳寒の中 縄文村の主立った人々が座って日の出の方向を見詰めて待ったものでは無かろうか、そして村人はその周りを囲み日の出前の朝日が高い山々を照らした後、次第に光の扇が遠くから上って近付いて来て、配石をそして先祖達の墓を先ず照らし、次に座って祈る人々に朝日が射すのを見守り、太陽の冬至からの回復を知って祝ったものでは無かろうか。こうした初日の光景は遺跡公園整備で高い土堤が作られてしまい今は見ることが出来ない。
ここの縄文人は冬至を日の出と日の入りで知り、一年のカレンダーを持ち農事にも生かしていたのでしょう。地理的に日本のほぼ中心地であり重要な祭祀だったのでしょうか。
縄文時代の冬至祭祀を示す遺跡として世界遺産となり得るのでは無いか
 2020.12.21日の金生遺跡の冬至の日のこと。

  • 2021/01/04 (Mon) 06:13
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レインボー
レインボー
Re: やかたしんぞう 様、金生遺跡の冬至祭祀

やかたしんぞう 様
たいへん貴重な情報、ありがとうございます。

やはり、ストーンサークルは縄文カレンダーであること、確信しました。
草々

  • 2021/01/04 (Mon) 07:20
  • REPLY
やかたしんぞう
金生遺跡は縄文代の国立太陽運行観測天文台

金生遺跡は縄文人がカレンダーを作るため太陽運行の観測を行っていた。
冬至からの日の出の変化が正確に観察できるように配置されているこの遺跡からは
太陽運行を正確に知ることが出来ることが分りました。
つまり太陽暦を作っていた
国内縄文遺跡でこのような冬至が正確に分る遺跡は他に有るでしょうか。

冬至の日、茅が岳からの日の出はピークから下がった右肩にある2つ目の瘤辺りから出る。
日の出は山の稜線を日毎に下がっていく、最も下がったところが冬至である。
次の日からは一日ごとに日の出は稜線を上りそれは太陽が1日ごとに強まることを文句なく見せている。つまり茅が岳からの冬至日からの日の出は、太陽の回復を見る装置だった。
他方、西の甲斐駒ヶ岳右肩への日の入りは、ピークから少し下がった窪み辺りに夕日が落ちる。
冬至からは日一日と稜線を下がったところに夕日が落ちていく。
こちらは冬至からの日数を数えるカウンターとなっていて、南アルプスのギザギザの稜線に引き継がれて、春分から夏至まで日数を数え続けることが出来るようだ。
巨大な山を利用したカレンダーと云うことになる。
夏至からは行きとは少し変る夕日の位置を冬至まで正確に数えられる。
こうして春分、夏至、秋分、冬至のような季節は、間違えること無く知りうる。
そればかりではない、もしもの天候悪化の際には東西にある茅が岳と甲斐駒で太陽観測機会を失う確率を二分の一に下げている。
日本の地理的中心位置にある金生遺跡は縄文民族の国立太陽運行観測天文台で有ったのかと思う
このような場所が他にあるとは思えないから、世界中から最適地域を探してこの位置を見つけたのでは無いだろうか。このような特徴的な場所に この金生遺跡の冬至の配石は作られていた。

20万年前に起きたとされる八ヶ岳山体崩壊の地形の先には富士山が見えているこの眺望は何時の日か起こる富士山の山体崩壊の姿を見るかの錯覚に陥る。
この雄大な景観を南北の軸にした中に、東に茅が岳、西に甲斐駒という地形の中央部にある金生遺跡この絶妙なポジションは何だろうか
芸術的とも云えるこのような場所に太陽運行観測天文台を設けた縄文人の知恵には驚嘆の他有りません、圧倒されてしまいます。
ここまで思い至るまで一体何日掛かてしまったのか 縄文人には敵わない。
日本国内に、いや世界にこんな贅沢なカレンダーは二つとあるだろうか。
太陽暦はエジプトで用いられていたのでどう関係するのか

  • 2021/01/05 (Tue) 19:22
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レインボー
レインボー
Re: やかたしんぞう様、金生遺跡は縄文代の国立太陽運行観測天文台

やかたしんぞう様

金生遺跡と縄文カレンダーとの関係、深い考察に感心いたしました。

拙ブログでは、ストーンサークルの役割について、縄文時代晩期に作られた時期を注視しています。
金生遺跡では、周囲の山の稜線と関係し、縄文カレンダーの本質が明確になったものと理解します。

貴重な情報、ありがとうございました。
草々

  • 2021/01/06 (Wed) 08:03
  • REPLY
やかたしんぞう
国立と言ったのは

金生遺跡には青森など遠くからの土器が集まっていると言うことで
東国の広い範囲に太陽暦情報を提供していたのだろうと言うことからです。

  • 2021/01/06 (Wed) 11:39
  • REPLY
やかたしんぞう
金生の暦は金生暦 金の暦 金製の暦

金生の暦は
太陽暦ではありませんでした
金生の暦は金生暦 金の暦 金製の暦
1万年使っても閏の問題はありません
毎年冬至を確認して冬至を一年の始まりにしていたから
太陽暦のような小賢しい知恵は必要ありません
金生暦です
自然に従っていた縄文人は
太陽の運行ををそのまま受け入れていただけでした
金生暦を人類は受け入れるべきです

  • 2021/01/07 (Thu) 03:44
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レインボー
レインボー
Re: やかたしんぞう様、国立と言ったのは

やかたしんぞう様

>金生遺跡には青森など遠くからの土器が集まっている

〇なるほどです。
 金生遺跡に縄文カレンダーの原型があったという感じでしょうか。
 草々

  • 2021/01/07 (Thu) 08:02
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レインボー
レインボー
Re: やかたしんぞう様、金生の暦は金生暦 金の暦 金製の暦

やかたしんぞう様
度々の貴重なコメント、ありがとうございます。

ご指摘の「金生の暦」、初めて聞きました。
なんのことでしょう?太陽暦と違うのですか。
草々

  • 2021/01/07 (Thu) 08:07
  • REPLY
やかたしんぞう
金生暦は太陽運行を観察しています

暦に素人の私にはよく分らないので説明が難しいのですが
縄文金生天文学者は冬至を実測確認して一年の初めを確定していました。
毎年それをやるので閏などと云うことは自動的に入っていたものと思います。
実際の太陽運行を見ていました。
エジプト人はどうでしょうか、太陽観測をしていたのでしょうか、シリウス暦でした
古代ローマも現代も苦労して計算して季節が外れないように調整していますね。
年の初めは太陽と何の関係も無く設定していますから。
縄文人はありのままの太陽から金生暦を作っていた 冬至を観測起点としていた。
いわゆる太陽暦とは全く異なっています。
そのため青森からもその情報を手に入れるため土器を持って金生天文台にやってきていたものと思います。金生天文台は標準デイを発表していたのでしょう、これは相当に高い値段のものだったのでは無いでしょうか。

  • 2021/01/07 (Thu) 17:36
  • REPLY
やかたしんぞう
縄文人と現代人

絵本
縄文人は4000年前冬至を知って季節を知っていたでしょうか
問います
一年の初めの日をどのようにして決めているでしょうか
今 現代社会はそうしています 太陽系地球とは関係ない
縄文人は毎年確認していた
ではどうすれば良いと思いますか

  • 2021/01/08 (Fri) 04:36
  • REPLY
レインボー
レインボー
Re: やかたしんぞう様、金生暦は太陽運行を観察しています

やかたしんぞう様
たびたびの貴重なコメント、ありがとうございました。

金生暦について、理解しました。
草々

  • 2021/01/08 (Fri) 07:28
  • REPLY
レインボー
レインボー
Re: やかたしんぞう様、縄文人と現代人

やかたしんぞう様

質問に答えます。

>一年の初めの日をどのようにして決めているでしょうか

〇回答
 縄文時代は食料確保が重要で、その食料が取れ始めるのが春です。
 おそらく、春の花芽や野草の芽が出る頃が1年の始まりだったと思われます。
 因みに、縄文時代は栗が主食でしたが、その始まりの花が咲くのも春です。
 草々

  • 2021/01/08 (Fri) 08:08
  • REPLY
やかたしんぞう
青森からの土器

金生遺跡では青森からの土器も出ているので、金生配石での冬至祭祀には
冬至日確認のために参加していたのではと推測
ということで縄文代の太陽観測中央天文台だったのでしょう

  • 2021/01/08 (Fri) 15:37
  • REPLY
レインボー
レインボー
Re: やかたしんぞう様、青森からの土器

やかたしんぞう様
たびたびの貴重なコメント、ありがとうございます。

金生遺跡が中央天文台だったとすると、大発見になりますね。
しかし、東北、北海道にもストーンサークルはあるので簡単に結論は出ない感じもします。
草々

  • 2021/01/09 (Sat) 07:14
  • REPLY
やかたしんぞう
標準時天文台です

青森では冬至の日の出 日の入りは観測困難なようですから
金生遺跡が全国のストーンサークルの標準時を出していたのでは
北海道でも金生遺跡の壁立ち建物類似の石製品が出ていて不思議とされています
壁立ち建物は当時では王宮または特殊な何かのようです

  • 2021/01/10 (Sun) 02:42
  • REPLY
やかたしんぞう
縄文時代の大集積遺跡

金生遺跡 ここは地形から考えても日本に唯一無二
その地形を用いた太陽運行観測天文台
年号とは国を支配する基本
では年の初めを支配するここは縄文人にとっては支配?の中心となる
ここはというわけで縄文人の支配中心地だった
それはこれから解明されてゆくでしょう
配石遺構は周囲に38程有った様子
全国から集まった各地の部族のものでしょうか
縄文時代の大集積遺跡
遺跡については詳しい人に解説して貰いたいものです

金生遺跡は
圧力はパスカルにされた
日付変更線は金生線
世界初の太陽観測の暦とすれば 金生暦に変えたらどうか

  • 2021/01/10 (Sun) 02:48
  • REPLY
レインボー
レインボー
Re: やかたしんぞう様、標準時天文台です

やかたしんぞう様
貴重なコメント、ありがとうございます。
参考にさせていただきます。
草々

  • 2021/01/10 (Sun) 08:12
  • REPLY
レインボー
レインボー
Re: やかたしんぞう様、縄文時代の大集積遺跡

やかたしんぞう様
度々の貴重なコメント、ありがとうございます。

金生遺跡は縄文時代の重要な遺跡であることは分かりました。
縄文時代の中心地は、金生遺跡のほか三内丸山遺跡があると思っています。

これらの関係がどうなっているのか興味深いところです。
草々

  • 2021/01/10 (Sun) 08:17
  • REPLY
やかたしんぞう
金生遺跡の冬至祭祀

何故縄文時代に暦が必要だったのか
暦が無かったら農耕は出来たのか 縄文では雑穀など多数の作物が作られていた

金生遺跡天文台 金生遺跡での冬至日の確定のためには、予想日の2-3日前から祭りとされ暗い内から人々が集まり配石の座位置に座り、厳寒の中日の出をじっと待った。日毎に日の出位置が山稜を下り止まるところを見詰めた。そして遂に日の出が山稜を上ってきたことを確認するには2-3日見続けることが必要だった。この間が冬至の祭祀だった。もちろん甲斐駒に沈む夕日も見続けていた。
茅が岳と甲斐駒双方で納得できれば良いが、山の天候は移りやすく見えないことも多く、しかしどちらか一方で何とか冬至日は確認できた。
こうして得られた年の初めの日時は全国から集まった部族代表者により各地の部族に伝えられたものだった。縄文人は早くから雑穀を作っていた。それは正確な暦を持っていたからだった。

日本の縄文時代は狩猟・採集社会だったという。しかし多種類の雑穀類を早くから作っていた事が知られている。海外からは「それなら農耕社会では無いか」と云われてきた。
もしもそのような雑穀を自在に作っていたとすれば、種まきはどうしていたのか。
それは太陽があの山のあそこの尖りから出たら種を播けということで済ませられたのか。
これだけ多数の作物を異なる地域であの山のあそこからの日の出で種まきなどとそんな
ことで安定して作り続けることが可能なのか。
農業者に聞いてみたらどうなのか、カレンダー無しにそんなことが出来るだろうか。
弥生まで農耕社会では無いというのは思い込みでは無いのか。
農耕社会とすればカレンダーが必要である。その証拠が金生遺跡天文台と付近の大集落。
縄文時代はやはりシンクロナイズして新石器時代農耕社会だったのでは無いか。
日本だけ突出して土器だけと云うことでは無いのでは無いか。
エジプトを出発とする暦は名ばかり太陽暦で太陽の運行を観測して作られたものでは無い、お陰で現代至るまでそのカレンダーによる季節変動に悩まされ続けてきたというのがこれまでの歴史を見れば分る。原因は何か、殆ど単一作物に寄りかかっていた農耕に有るのでは無いか。大麦と云い小麦と云いそんなものならその程度のいい加減な暦でも何とかやってこれたということでは無いか。一方縄文時代の日本は雑穀を作っていたから精密な季節感を捉えた暦が必要とされていたはず。
必要は発明の母で直接太陽観測による暦 金生暦を作り出したのでは無いかと思う。
そして今欧米からの太陽暦を採用しているのは、後になって稲が主要作物、米が主食となって・・・
殆ど単一作物になったこの文化の変化により可能となったもので縄文文化とは異なるものでは無いのか。

縄文は太陽の巡りに会わせて安定した社会が1万年
それは正確な暦 太陽運行を観測した正確な暦、金生暦があったから維持できた。
それでもしかし寒冷化には抗することも出来ず滅亡した。

  • 2021/01/12 (Tue) 03:45
  • REPLY
やかたしんぞう
縄文の作物

まとまり無く済みません。

こういう文献 記載があります。  小山修三と千里の森かな

こうみると5000年前までに日本で発見された栽培植物の数の多さに驚く。主なものでもアサ、ウルシ、エゴマ、アブラナ、ゴボウ、アカザ、ヒエ、ダイズ、アズキ・・・。この時代すでに、立派な農耕文化があったと言ってよく、そう認定しないのを外国の考古学者は不思議がる。
++++そうなのか それらを作るには暦が要るはず

その理由として、日本では縄文時代は狩猟採集段階にあり、農耕が始まるのは弥生時代からとされていたからである。そのため、栽培植物はすべて弥生時代以降に大陸から伝わったものと断じられていた。とくに野菜類については辞書などにはそう書いてある。

---というそうですまとまり無くて済みません

  • 2021/01/12 (Tue) 04:14
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レインボー
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Re: やかたしんぞう様、金生遺跡の冬至祭祀

やかたしんぞう 様

度々の貴重なコメント、ありがとうございます。

縄文時代農耕ですが、それは確認されています。陸稲については5000年前からあることが分かっています。

そして、何故、縄文カレンダーが必要だったかですが、拙ブログ指摘のとおり寒冷化による食料不足と関係していると思われます。縄文人はカレンダーを作り、その寒冷化に対応したと思われます。東北にそれが多いのはそのためと思われます。
草々

  • 2021/01/12 (Tue) 08:46
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レインボー
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Re: やかたしんぞう様、縄文の作物

やかたしんぞう様
縄文時代の農耕、ご指摘のとおりと思われます。

それは畑作ですが、その畑作は弥生時代になっても続いていたというのが拙ブログです。
詳しくは、「弥生時代に東京は畑作の方が多かった」を参照願います。
草々

  • 2021/01/12 (Tue) 08:52
  • REPLY
やかたしんぞう
シンクロニシティ

環状列石などのようなものは縄文後期に青森辺りから北海道南部にまで広がっていったようです。
青森辺りでは冬の冬至の観察は難しく正確な時を金生天文台で出したので、それを利用して日時計が広がっていったのでは無いかと想像しています。
環状列石の広がりに関してそれらしいことは小山修三と千里の森に出ていたかと思いますが。
金生暦は雑穀耕作のためそれぞれに応じた最適な種まき時期がありそれをコントロールするには超精密な季節感が必要だったものと思うものです、それはエジプト発祥のいわゆる太陽暦では無理だったと考えます。井戸尻遺跡では雑穀、農耕の研究をしているようです。
必要は発明の母です、雑穀農耕なのでカレンダーが必要とされ遂に金生天文台が作られたものと考えます。エジプトにシンクロニシティと思います。

  • 2021/01/13 (Wed) 05:55
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Re: やかたしんぞう様、シンクロニシティ

やかたしんぞう様

ご指摘の「金生暦は雑穀耕作のためそれぞれに応じた最適な種まき時期があり」というのは、その辺りでは縄文雑穀栽培があり、ほんとうだったと思われます。

一方、東北と北海道ですが、こちらの方は秋の鮭がいつ上ってくるのか、主食の栗の出来具合など、秋が重要だったと思われます。そして、春は山の雪解けを見て作業する感じだったと思われます。その意味で、精密なカレンダーが必要だったかは不明と思われます。
草々

  • 2021/01/13 (Wed) 07:58
  • REPLY
やかたしんぞう
社会にはカレンダーが必要

東北、北海道については夏至の観測があれば
秋のカレンダーは出来ると思います。
しかし中央天文台が中心となるのではないでしょうか、何故なら
社会があり人の交流には単一カレンダーがどうしても必要では無いでしょうか
エジプトと同時代に縄文人だけがカレンダーなしに社会が動いていた、そんな原始的な社会でしたでしょうか、あんな縄文土器を作る人々が


  • 2021/01/14 (Thu) 07:13
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レインボー
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Re: やかたしんぞう様、社会にはカレンダーが必要

やかたしんぞう様

東北・北海道の縄文人に中央天文台が必要かと言われれば、
その場所への移動方法を考慮すると、遠いというイメージがあり、
必要ないと結論されると思います。

昔の交通路は完全でなく、遠くに行くのは命がけだったと思われます。
草々

  • 2021/01/14 (Thu) 07:56
  • REPLY
やかたしんぞう
阿久遺跡とストーンサークル

エジプトや古代ローマでは365日の暦を使って、それが季節と狂ってもそのまま使い続けていた。
一度作られた暦の校正が出来ていないそれでも何とかなっていた 単作農耕だから。
エジプトはシリウスの印象が強すぎて、太陽の運動を見ないで月や星を見ていたのだろう
そのことから様々な空想が広がることになり、そのお陰で天文や数学など様々な科学が発展した
比較して縄文人は阿久遺跡に見るように、難しい雑穀農耕を縄文前期から安定して行っていた。
縄文前期の阿久遺跡にはストーンサークルがありそれは暦を持っていたことの象徴では無いのか
そのストーンサークルはヒョウタンと共にアフリカからやってきたものなのか
その後ストーンサークルは山梨県、石川、東北地方にまで広がり更に北海道にまで
広がっていった様子があり、その社会が雑穀農耕により維持されていたとすれば
季節を正確に捉えるため暦の校正は太陽の運動から、冬至観測により行われなければならないだろう。
そういう文化が根付いていたとすれば暦校正のための冬至情報は
東北、北海道にも伝えられていたに違いない。
冬至確認施設は阿久遺跡周辺の藤内や井戸尻、金生辺りにその中心が有ったのでは無いだろうか。
その最終形が金生遺跡と言うことになるのでは。

  • 2021/01/18 (Mon) 06:03
  • REPLY
レインボー
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Re: やかたしんぞう様、阿久遺跡とストーンサークル

やかたしんぞう様
貴重なコメント、ありがとうございます。

ストーンサークルのルーツがアフリカなのかは分かりませんが、寒冷化と関係しているすれば、
縄文晩期に作られた遺跡と思われます。

また、縄文農耕のルーツも興味深いところです。
拙ブログでは、ヒョウタンは南方系マレー系の影響、豆類、雑穀は北方系ツングース系の影響が強いと見ています。
草々

  • 2021/01/18 (Mon) 07:24
  • REPLY
やかたしんぞう
列石やストーンサークルなどは

列石やストーンサークルなどから住民は暦を作っていたのだろうか
その証拠は
あれだけのかず発見されていながらそれらから暦は作れるだろうか
それは逆では無いのか
それらのものは祭りのためのものであり暦から作られた
暦が作られ使われていたという証拠では無いのか
現代でも何々の間から冬至の日が出ると言われるものは
暦があるから作られたものでは無いのか
太陽の運行を一年見れば暦など簡単に作れるものだから
忍耐力があれば誰でも作れるから

  • 2021/01/20 (Wed) 03:32
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レインボー
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Re: やかたしんぞう様、列石やストーンサークルなどは

やかたしんぞう様
いつも貴重なコメントありがとうございます。

ご指摘の「列石やストーンサークルなどから住民は暦を作っていたのか」ですが、
まだ判断するための決定的なものがない、という感じでしょうか。
草々

  • 2021/01/20 (Wed) 07:15
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