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弥生遺跡の骨の主は縄文人だった(稲作と日本人)

弥生遺跡2500年前

我が国の水田稲作開始については、弥生時代に稲作民族が来て始まったのか、縄文人が水田稲作を導入して始まったのか論争は続いている感じがします。

関連し、「日本人の源流を探して」に、「第3部 弥生文化と渡来人の登場 02.水田稲作技術を伝えたのは縄文人か」、という記事があり、福岡県新町遺跡(弥生遺跡)の支石墓から発見された被葬者(人骨)は、北方系の高身長の「渡来者」ではなく低身長の「縄文人」であったことを紹介しております。

今回は、その「縄文人」のDNAについて愚考します。

弥生時代初期の遺跡から発掘される生活用具のほとんどは縄文時代のものと同じで、これが弥生人=縄文人、と言われてきた物的証拠となっており、拙ブログでも縄文人=弥生人としています。

さらに拙ブログでは、中国の古書に出てくる弥生時代の倭人は低身長の人の蔑称であり、その小柄な特徴はマレー系の人々に当てはまることも紹介してきました。

そして、そのマレー系の人たちですが、1万年前から人口の少なかった北九州や朝鮮半島に住み着き、アイヌ系と混血し縄文人になりました。マレー系の人々は古くからの稲作民族で、当初、陸稲を畑作で作りました。そして、朝鮮半島から鉄器が導入され農具が開発されると、低地に住み、水田開発をし、水田稲作の担い手になっていった、と紹介してきました。

これらマレー系の人々が古くから北九州に居住していたことから推察しますと、福岡県新町遺跡の支石墓から発見された低身長の被葬者の骨のルーツはマレー系の人々であったと推察されます。そして、韓国に同時代の稲作遺跡として松菊里が知られておりますが、これもルーツは同じであると推察されます。

このことは、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)からも推察されます。すなわち、マレー系のDNA(ハプログループ O1b)の割合は、日本で約32% (Hammer 2005)、韓国でも32% (Kim 2011)と、どちらも3人に一人がマレー系となっています。

一方、高身長の渡来人というのは、北方系のツングース(モンゴル系と中国系の混血)で、彼らは畑作民族であり、稲作民族ではありません。彼らは、寒冷化が進むと、4000年前頃から食料をもとめ中国東北部の満州から徐々に南下し、朝鮮半島を経て日本に居住するようになりました。この移動時期が、水田稲作導入と重なり、彼らが稲作を導入したような錯覚をもたらした、と思われます。これらの関係を上の地図に示しました。

なお、関連の「日本人の源流を探して」というウェブサイトhttp://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_02inasakugijyutu_wo_dareka.htmlの内容を引用しますと次のとおりです。


日本最古の水田址-菜畑遺跡の発見-

朝鮮式の支石墓に葬られていた人

 このページのトップの地図写真をご覧いただきたい。
 曲り田遺跡から数km、糸島半島の西側に新町遺跡という支石墓を伴う遺跡がある。
 その支石墓から被葬者の骨が発見された。
 支石墓は中国の山東半島や東北部、朝鮮半島に広く分布しているが、朝鮮半島南西部に特に集中して分布している墓形式である。その支石墓が造られた時期も無文土器時代、まさに弥生早期から前期の時代である。日本では支石墓は西北九州に偏在しており、出現時期も弥生早期の夜臼式土器段階である。
 したがって、この墓制は稲作や磨製石器農具などとセットで朝鮮半島南部から九州西北部に伝播したと考えられている。
   
 その墓に葬られている人だから「渡来者」に違いないと誰もが考えていた。
 新町遺跡の支石墓から出土した14体の遺骨のうち、弥生前期初頭の熟年男性2体から頭蓋形態が判明した。その特徴は予想に反し渡来形質の片鱗さえ認められず、ほぼ全員に施されている抜歯の様式も西日本縄文人の様式を踏襲していた。
 まさに「縄文人」の頭骨そのものであった。
 
 意外な結果に到達した人類学の中橋孝博は、この支石墓の被葬者を、
1.新しい稲作文化(稲作技術や墓制など)を取り入れた縄文人(漁労民)。
 (考古学者は西北九州の支石墓が朝鮮半島と違って甕棺や石棺・木棺(上図参照)を使わ
 ない、 所謂土壙墓(土葬)が一般的で、縄文的色彩の濃い副葬品を伴っていることから
 この説を支持する人が多い)
2.弥生早期のこの時期、朝鮮半島には高顔・高身長と低顔・低身長のタイプが混在しており
 両方のタイプが渡来してきたが、新町人は後者のタイプであった。
という可能性を指摘している。

 この中橋の指摘は、筆者には更にいろいろな疑問を生じさせる。
1.の縄文人(漁労民)は、朝鮮半島にどれほど関わったのか。墓も朝鮮式にするほど、南部
 朝鮮の習慣に慣れ親しんだのだろうか。すなわち、筆者の言うコロニーに長期滞在したよ
 うな縄文人なのであろうか。
2.朝鮮半島の低顔・低身長のタイプの人とは、北部九州の縄文人とどういう関係にあったの
 か。実は旧石器時代から南部朝鮮人と北部九州縄文人(西日本縄文人)とは強い遺伝的関
 係があった集団がいたのではないか。
 筆者にはそのような疑問が湧いて来るのである。   
 
 いずれにしろ以上の検討を通じて、最初期の段階での水田農耕は、縄文系が主体的役割をつとめ、南朝鮮系は従的存在に止まったように思われる。しかも先の家根祥多の推計によれば、唐津湾周辺と糸島半島海岸部の狭い地域に来往した稲作農耕民の数は微々たるもので、最大限見積もっても数百人のオーダーを超えるものではなかったとしている。
 とすれば、この最初期の水田稲作の到来が西北九州の縄文人に大きな遺伝的影響を与えたことはなかったと考えた方が妥当だろう。


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[ 2017/09/05 07:59 ] 稲作と日本人 | TB(-) | CM(0)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人のDNAと縄文思想と稲作のルーツについて海外経験と最新情報を元にユーモアをまじえて迫ります

レインボー

Author:レインボー

私は稲仕事の関係からいくつかのアフリカとアジアの国々で暮らし、日本人のルーツはアフリカまで辿れること、その思想は自然との共生思想(縄文思想)であること、稲はマレー系の人々が持ち込んだことを実感しました。その経験をベースに、日本人のDNAと稲作のルーツに迫ります。なお、ペンネームは、「虹を見る歴史思考」という拙ブログの手法と関連し「レインボー」とします。どうぞよろしく。
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