古代九州には2種の民族が住んで居た(邪馬台国と日本人)
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レインボー

古代九州には2種の民族が住んで居た(邪馬台国と日本人)
前回(4日前)、邪馬壱国(邪馬台国)はマレー系集団の国であったことを紹介しました。関連し、今回は、九州に、そのマレー系を中心するグループとアイヌ系を中心とするグループの2系統があったことについて愚考します。
私は仕事の関係から、北九州の築後市に4年、南九州の宮崎に7年居住しました。そして、同じ九州でも北と南では大きな違いがあることを感じました。その違いの一部を「博多美人のルーツ」で先日(8月30 日)紹介しました。
顔形の違いだけでなく、言葉も違うことを実感しました。例えば、北九州の築後では「そうやろ」、「ばってん」、「かたらんと」など、優しい感じの言葉が多かった感じがします。そして、こうした言葉がマレー系の言語に由来するとなると、北九州の倭人=マレー系というのが明確になっていくと思われます。
一方、宮崎ではアイヌの地名が残っていることを前回紹介しました。そして、平均的な日本という印象を受けました。
そして、男ですが、北九州は髭(ひげ)が薄く小柄な人が多くマレー系の特徴がありましたが、南九州は髭が濃く、彫りの深い美男子が多く、アイヌ系の特徴がありました。
これらのことから推察しますと、移住の少なかった古代においては、北九州と南九州の間にはもっと大きな開きがあったと思われます。すなわち北九州はマレー系の多い地域、南九州はアイヌ系の多い地域になります。そして両者は別々の言語を使い、弥生時代後期に国が作られるようになると、別々の国になっていったと推察されます。
例えば、魏志倭人伝では、邪馬壱国(邪馬台国)の南に狗奴国(くなこく)があり、そこはアイヌ系の熊襲(くまそ)の国で、邪馬台国とは違った人々が住んでいて敵対していた可能性があります。
また、魏志倭人伝に「奴国は国の境」という言葉が出てきます。奴国は、漢の倭の奴国王の金印で有名な国ですが、伊都国(福岡県糸島)の南方100里にあったとありますので、奴国の場所は福岡市の南当たりと推察されています。
この国の境という意味は、女王国(邪馬台国連合)とその他の国の境と思われますが、邪馬台国連合はマレー系言語の国でまとまっており、その他の国にはアイヌ系の言語の国と考えることもできます。
さらに、伊都国から南に水行20日で投馬国という国が出てきますが、投馬国は宮崎(日向)という説が有力です。投馬国の戸数は5万で、邪馬台国の戸数7万に次ぐ大きさですが、倭国の外にある国として紹介されています。
これらの情報から推察しますと、マレー系の集団の邪馬台国連合は、熊襲などアイヌ系グループに囲まれ、その助けをもとめて中国(魏)に朝貢し助けを求めていたとも考えられます。
関連し、魏志倭人伝にみる女王国(邪馬台国連合)とその他の国の関係を上の地図で示しました。

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