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神武東征の出発地の状況(邪馬台国と日本人)

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邪馬台国時代の日本(3世紀)


神武東征の出発地の宮崎の状況(邪馬台国と日本人)

前回(2日前)、邪馬壱国(邪馬台国)は九州にあったことを愚考しました。一方、九州は日本の初代天皇の神武天皇(カムヤマトイワレビコ)の発祥地としても知られております。関連し、今回は、神武東遷の地の日向(宮崎)の状況について愚考します。

ウイキペディアによりますと、『日本書紀』では ,
神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、・・・遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た。とあります。

そして、『古事記』では、
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。とあります。

その神武天皇(神日本磐余彦天皇)発祥地の日向ですが、「日向三代のころ、この地は既に現鹿児島県南部から日南・宮崎・延岡に渡る広い国であった。そして西都原古墳群、茶臼原古墳群、新田原古墳群などが残る西都は、投馬国の中心地であったのではなかったか。」(https://blogs.yahoo.co.jp/fudasyosanpai/30372388.html?__ysp=44OI44Km44Oe5Zu9IOaXpeWQkQ%3D%3D)という記事があります。

この記事にある「投馬国」とは魏志倭人伝に出てくる国で、伊都国(福岡県糸島)から南へ水行20日の場所から推定し日向あたりにあったと言われている国です。その人口は、5万余戸の戸数から20万人(5万戸×4人)と推測できますので、九州では邪馬台国の7万余戸に次ぐ大勢力と思われます。

したがって、この記事の説でいけば、日向(投馬国)というのは、邪馬台国に次ぐ九州の大国であり、神武天皇発生地として相応しいと思われます。

日向の地が何故発展していたのか想像しますと、中心は西都市辺りと思われますが、暖かで平坦な地が多く、当時の稲作栽培に適しており、コメの生産が他地域より優れていたと思われます。さらに、稲作農耕に必要な鉄器も朝鮮半島に近く導入しやすかったためと思われます。

一方、拙ブログでは、九州地域はマレー系言語の邪馬台国連合グループ、アイヌ系言語のグループがあったことを前回(2日前)紹介しました。当時、邪馬台国連合は、マレー系言語を武器に、同じマレー系の言語を話す朝鮮半島と活発な交流をしていたと推察されます。

神武天皇発祥地の日向は、アイヌ系言語グループの中では進んでいましたが、このマレー系の邪馬台国連合と比較しますと、やや遅れていたと思われます。

そして、邪馬台国時代の日本国の様子をまとめますと、邪馬台国は先進国、投馬国(日向)は中進国と言えます。そして、投馬国と同じように中進国だったのが、吉備国、出雲国、大和国だったと思われます。

関連し、邪馬台国時代(3世紀)の日本の様子を上の地図に示しました。


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