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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、天皇家はアイヌ系と分かりました。このことから、朝鮮半島由来のツングース系王家がヤマトに創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。関連し、古代史の真相に迫ります。

ツングース系王家の繁栄と滅亡 6.巨大古墳建造と民衆の疲弊

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古墳時代の民族分布と支配者

ツングース系王家の繁栄と滅亡 6.巨大古墳建造と民衆の疲弊

 弥生時代の発展のなかで小国家が生まれ、出雲王国ができ、その王家がヤマト(奈良)に移動し、馬と船(構造船)を得て、北陸・中部から東九州の西日本一体に支配地が広がったことを検討してきました。 そして、その支配者は朝鮮半島由来のツングース系民族であり、その王家の象徴は前方後円墳であったことも検討しました。

関連し、今回は、「巨大古墳建造と民衆の疲弊」について検討します。 

 まず、その建造にかかわる労力の推定ですが、墳長486mで最大の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の例があります。 

「現代技術と古代技術による仁徳天皇陵の建設」に詳しく紹介されていますが、その記事によれば、延べ681万人の作業員が関わり、作業員数が多いのは、盛り土の運搬です。

ここから創造しますと、盛り土量と作業員数は比例する関係にあると推定されます。 そこで、その他の古墳建造の動員数ですが、墳長については分かっていますので、大仙陵古墳を例に、墳長と動員数の関係を推定してみました。その計算法は、動員数=a×体積(墳長×墳長×墳長)、すなわち、681万人=a×486m×486m×486mから、a=0.059となりました。 

この数値をもとに計算されたのが下図の作業員数と墳長の関係です。墳長100mは10万人、200mは50万人、300mは160万人、400mは380万人、500mは740万人で、墳長200mから動員数が50万人で大規模工事となる感じです。その意味で、200m以上の古墳は巨大古墳で、ツングース系王家の王墓と見ることができます。 

古墳の墳長と動員数の関係


この図をもとに、最初の巨大古墳の箸墓古墳について検討しますと、墳長276m、動員数125万人です。箸墓古墳研究者の甘 粕 健(1985)によれば、動員数は延べ100万人と推定していますので、ここでの125万人という数値はほぼ妥当な数字と思われます。 

次に、奈良と大阪の200m以上の巨大古墳建造の合計動員数を半世紀別に下図に示しました。

奈良と大阪の巨大古墳建造のための半世紀別動員数

5C前半は、世界最大の古墳と言われる大仙陵古墳(仁徳天皇陵)が建造された時期ですが、動員数は頂点に達し、合計2500万人です。これを50年(半世紀)で割ると1年辺り延べ50万人となります。 

 次に、1年当り50万人の動員数が可能なのか内容を検討しますと次のとおりです 単純化するため、1年間の作業に当たる日数を農閑期中心に1人当たり50日とすると、1年辺り延べ50万人の動員数は、50万人=1万人×50日となりますので、実際は1年当り1万人が動員されることになります。 

当時5世紀の人口について、小山修三 (1978,1983年)の古代人口推定を基に計算しますと、近畿地域で80万人程度ですので、ここから1万人の動員というのは不可能な人数ではありません。 

一方、これはツングース系王家の墳墓です。現在のY染色体ハプログループ分類による結果から推定しますと、近畿のツングース系は約30%です。これらの人々は支配者側で、これらの人々以外から動員されたと見ますと、約60万人が対象者となります。 また、動員される者は男性とすると、60万人の半分の30万人、そして、このうち古墳建造に参加できる壮健な男性は約20万人となります。

この20万人から1万人、すなわち20人に1人の動員となりますが、毎年のことですので、それぞれ20年に1回は動員されることにすると、ほぼ全員が生涯に1回は動員されることになります。 

この動員がどのような労働条件で行われたのが問題となります。当時の食料事情や宿泊事情については不明ですが、古墳建造のための宿泊施設遺跡が見つかっていないこと、その後にツングース系王家の滅亡が起きたこと等の状況を見ますと、厳しい労働状況だったのではないかと推察されます。

すなわち、支給されたのは、粗末な食事、粗末な住環境、徒歩による古墳建造地派遣で、奴隷労働に近い扱いだったと推察せざるを得ません。 

この5世紀前半の時期は、ツングース系王家が馬と構造船を充実させた時期と前回紹介しましたが、まさに、馬と構造船は巨大古墳建造を可能にした原動力になっていたと思われます。

関連し、地域外からの動員もあったことが推察されますが、これらの人々がどのような状況にあったのかは不明です。 さらには、これら大規模古墳建造の他に中小規模な古墳(墳長200m未満)の建造も多数ありました。これらの結果、古墳建造は過酷な事業で、民衆の不満は大きく、次の半世紀(5世紀後半)に古墳建造が小規模化し、かつ少なくなったのは、そのためと思われます。

因みに、古墳建造動員数は、5世紀前は2500万人ですが、5世紀後は800万人で、約3分の1となっています。 また、5世紀後半末期になると、ウワナベ古墳(奈良)の例ですが、勢力が弱くなり、王家が大阪から元のヤマトに戻った感じを受けます。 

このヤマトに戻った理由として、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)が5世紀後半に大阪北部を支配するようになったことと関係があると思われます。

 因みに、継体王は、大阪北部の樟葉宮(くすはのみや、大阪府枚方市)に新王宮を6世紀初期に築いています。おそらく継体王は、5世紀末期から大阪北部を支配し、一方、ツングース系王家は弱体化し、5世紀末期に大阪の地も守れなくなったのが真相と思われます。 

そして、6世紀前半となると、200mを超える巨大古墳建造はなくなりました。 なお、当時の継体王を含めたアイヌ系民族の状況ですが、アイヌ系の多い内陸部の岐阜や長野等で弥生時代より古墳時代人口が多くなっていることから想像しますと、中山間地に居たアイヌ系は、畑作のほか、適地は少ないが稲作を始め、人口が増え、近畿地域では、ツングース系とほぼ同数の30%程度になっていたと思われます。

 一方、マレー系ですが、現在のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)と同じ割合があったとすると、海岸部を拠点に稲作を行い、かつ、縄文時代由来の漁業や交易をし、全体の30%程度あったと推察されます。 

まとめますと、過酷極まる巨大古墳建造の結果、アイヌ系とマレー系は連合し多数派(60%)となり、権力者のツングース系(30%)に抵抗し、革命を起こしたと思われます。 これらの関係を上トップ図に示しました。 

次回は、それらの経過について検討します。 なお、それぞれの巨大古墳建造のための動員数については「巨大古墳建造は民衆を疲弊させた」を参考願います。

 
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ツングース系王家の繁栄と滅亡 5.東九州の支配と大阪への遷都

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ヤマト王家の大阪(河内)移動の背景

ツングース系王家の繁栄と滅亡 5.東九州の支配と大阪への遷都

朝鮮半島由来ツングース系王家は、初め(2~3世紀)に出雲に王家を創り、その後さらなる支配地拡大のため、日本の中心地と思われるヤマトに3世紀後半に移動したこと、さらには、4世紀、構造船と馬を手に入れ、支配地を拡大したことを検討しました。

そして、5世紀となると、その王家の象徴的遺跡である前方後円墳の建造がヤマト(奈良)から河内(大阪)に移りました。

その移動の理由として、拙ブログでは、5世紀になると、馬と構造船で東九州や四国まで支配地が広がり、海岸部に都を構えた方が利便性が高いと判断し、内陸部のヤマトから海岸部の河内に移動したと想像しています。

その象徴的遺跡は、世界最大の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、次に大きい応神天応陵と思われます。これらは、ツングース系王家の中心地(大阪)に建造され、その時期は5世紀前半ですが、まさに馬と構造船が活躍した時期と場所が一致します。

また、前方後円墳はツングース系王家の象徴と思われますが、関連し、5世紀前半には吉備に300m以上の造山古墳、宮崎に西都原古墳群が建造されています。これらは、まさに、ツングース系王家の西支配の象徴的古墳と思われます。

さらには、東海地域、東山地域、北陸地域にもツングース系王家象徴の古墳(前方後円墳)は建造され、関東東北を除くこれらの地域にも支配は及んでいたと推察されます。

因みに、東九州支配の様子として、九州地域の3~5世紀に建造された100m以上の前方後円墳を下表に示しました。すべて東九州にあり、ツングース系王家の支配が東九州にも及んでいたと判断されます。

画像4
関連し、前方後円墳のルーツですが、次のようであったと推察されます。

まず、方墳がベースにありました。大陸の始皇帝陵は有名です。次に、ツングース系の高句麗と関連し、広開土王碑がありますが、これも方墳です。その南部にあります新羅関係の古墳もほとんどが方墳です。関連し、日本に渡来したツングース系民族も高句麗の子孫で、墳墓は方墳が主流だったと思われます。

日本にある弥生時代末期(2世紀)それら方墳の代表は出雲の四隅古墳と言われます。次いで、3世紀に前方後円墳が建造されますが、これらの先に前方後方墳も作られています。

これらのことから、おそらく、方墳が先にあり、続いて祭壇と方墳が合体した前方後方墳が建造され、次いで前方後円墳が作られたと判断されます。

なぜ前方後方墳ではなく前方後円墳が選ばれたかですが、おそらく、前方後円墳の方が人型に似て美しい、このため王の陵墓として相応しいと判断され、前方後円墳が流行したのではないかと思われます。詳しくは「前方後円墳のルーツはツングース系の方墳」を参照願います。

関連し、前方後円墳の形成過程を下図に示しました。

画像3前方後円墳のルーツは前方後方墳

なお、ツングース系王家がヤマトから河内(大阪)へ中心地が変わった件については王朝交代説があります。「新河内王朝説」が、その代表と思われますが、ヤマト王朝が滅ぼされ新しい王朝が作られたという物的証拠はなく、この説は想像の域は出ていません。

まとめますと、古代の中心地がヤマトから大阪に移動した背景については、馬の導入や構造船の発達により支配地が拡大し、海岸部が支配の中心地となり、その結果、中心地を内陸のヤマトから海岸部の河内(大阪)に移したと見るのが妥当と思われます。

関連し、ヤマト王家が大阪(河内)に移動した様子について、上トップ図に示しました。



ツングース系王家の繁栄と滅亡 4.構造船建造と馬飼育の完成

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馬の埴輪(Wikipediaによる)

ツングース系王家の繁栄と滅亡 4.構造船建造と馬飼育の完成

朝鮮半島由来ツングース系民族は、鉄器を持ち、水田を開発し、豊かになり、人口が増大し、その中からツングース系王家が生まれ、その王家は出雲からヤマトに移動したことを検討してきました。

その後、王家はさらに巨大化しました。関連し、今回は、巨大な地域支配を可能にした馬の飼育と構造船の建造について検討します。

まず、馬ですが、日本では絶滅してしまったことが分かっていますので、当時の馬は朝鮮半島由来となります。

そして、巨大古墳が建造された河内(大阪)ですが、5世紀に馬の飼育場があったことが遺跡調査から分かっています。また、埴輪には馬形のものがありますが(上の図参照:Wikipedia)、これらが出てくるのは5世紀以降の古墳です。これらのことから推定しますと、馬の導入は4世紀、本格的使用は5世紀と推定されます。

この結果、ツングース系王家は、馬を使い、ヤマト周辺を移動し、古墳建造に必要な人員を確保したと思われます。当時、人々は馬を見たことがなく、かつ、乗馬した兵士は大きくたくましく見えたことと思われます。

因みにスペイン人のインカ帝国支配ですが、インカ帝国には馬が居なかったため、馬にまたがったスペイン人は大きく恐ろしく見えたため、インカの支配を少数でもできたことが知られています。日本の古代も同じく、馬は、戦いだけでなく人民支配の重要なひとつになっていたと思われます。

次に、構造船ですが、これなしに朝鮮半島からの馬の導入も不可能ですので、導入時期は同じく4世紀と推定されます。埴輪研究によれば、馬を乗せることのできる船形埴輪(準構造船)が出土するのは5世紀以降です。これらのことから総合しますと、準構造船利用は4世紀に始まり、5世紀に舟形埴輪ができたと理解されます。

すなわち、4世紀になると、馬も運ぶことができる構造船が作られるようになり、その結果、馬も日本へもたらされ、馬の飼育場も河内に作られるようになったと判断されます。

さらには、前回紹介の遺跡数ですが、古墳時代となると、それぞれの地域で弥生時代と同等の遺跡数が認められます。特に縄文遺跡の多かった中部地域も遺跡数が同等程度あります(下図参照)。

東海・北陸以西の古代遺跡数
関連し、古墳時代の遺跡数は前方後円墳など古墳数と関連していますので、それらの遺跡は朝鮮半島由来のツングース系民族由来の古墳が大半です。このことは、水田稲作が中山間地にも増え、ツングース系民族がアイヌ系の多い中山間地にも進出したことを示唆します。

古墳時代の地域別遺跡数を下図に示しました。

東海・北陸以西の古墳時代遺跡数

これらの結果、ツングース系王家の支配地は広くなり、その支配地は、当初の近畿、中国から、中部、北陸、四国、九州東部(大分・宮崎・鹿児島)までおよび、ツングース系民族が弥生時代に移住した西日本の全地域に及んだと判断されます。

まとめますと、陸部においては馬が、そして、九州と四国については船が重要であり、馬と船(構造船)の完成は、ツングース系王家の広大な地域の支配を可能にしました。

そして、王家はますます栄え、5世紀には世界最大と言われる大山古墳(仁徳天皇陵)建造の基礎ができたと判断されます。

関連し、下の写真は、著者がフイリピン・ミンダナオで働いたときにいただいた模型です。ミンダナオの古代の構造船ですが、解説によれば、これは遣唐使船のようです。当時の日本の構造船もこのようなものであったことが当時の埴輪から想像されます。

古代の構造船(ミンダナオの遣唐使船)



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ツングース系王家の繁栄と滅亡 3.近畿・中国地域の支配

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弥生時代末期2~3世紀頃の西日本の様相

ツングース系王家の繁栄と滅亡 3.近畿・中国地域の支配

前回、ツングース系民族は、鉄器を持って日本に渡来し、水田稲作で発展したこと、そして、小国家出雲王家を創ったが、その地域は平野部が少なく発展性が少ないことから、より大きな発展を目標にヤマト(奈良)に移ったことを検討しました。

今回は、ヤマトがどのように発展したのかについて検討します。

まず、出雲王家のルーツは朝鮮半島由来ツングース系民族でした。弥生時代、彼らが水田稲作で発展したことが弥生時代遺跡、特に発掘された骨の形、すなわち高身長や平べったいツングース系民族の顔立ちから明らかです。

関連し、各地域の縄文時代遺跡数と弥生時代遺跡数を下図に示しました。縄文時代はアイヌ系が中山間で栗を主食に、マレー系が海岸部で水産物、特に貝塚の周囲に住んでいましたが、それらの遺跡は、北陸、中部、東海、いわゆる中山間地の多い東日本と九州に多いことが分かります。

縄文・弥生時代の地域別遺跡数(中部以西)

弥生時代、朝鮮半島由来のツングース系民族が渡来し、弥生時代遺跡を残しましたが、それらの遺跡は近畿、山陽地域、九州(特に北部)に多いことが分かります。

さらに、弥生時代の発展度合いを見るために「弥生時代遺跡数/縄文時代遺跡数」の各地域の数値を示しますと下図のとおりです。この数値が大きいと弥生時代の発展度合いが多いと判断されますが、近畿、山陰、山陽、四国は弥生時代の遺跡数が相対的に高く、弥生時代に発展した地域と判断されます。

弥生遺跡数と縄文遺跡数の比

すなわち、これらの地域は弥生人、とくにツングース系民族が入り、水田稲作を発展させた地域と理解されます。そして、アイヌ系の人々は中山間に、マレー系の人々は海岸部に居て、一方、ツングース系の人々は平野部に住み、それぞれ棲み分けていた感じで、大きな民族対立には発展しなかった印象を受けます。

そして、出雲地域の山陰ですが、縄文時代と弥生時代の遺跡数はどちらも少ないことが分かります。すなわち、出雲は狭く、このことから出雲王家はさらなる発展のためにヤマトに向かったということが理解できます。

一方、古墳時代前の弥生時代末期(3世紀初頭)に栄えた地域として、出雲、邪馬台国(北九州)、吉備(岡山)の3地域が知られております。北九州については邪馬台国の場所として先に紹介したとおりです。

一方、吉備には、その代表的遺跡として「楯築古墳」が知られておりますが、Wikipediaによれば次のとおりです。

楯築遺跡(たてつきいせき)ないし楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)は、岡山県倉敷市矢部にある墳丘墓。形状は双方中円形墳丘墓。国の史跡に指定され、旋帯文石(弧帯文石)は国の重要文化財に指定されている。

概要

王墓山丘陵の北側に弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓である。墳丘の各所から出土した土器片の多くが壺形土器、特殊器台・特殊壺の破片である。直径約43メートル、高さ4、5メートルの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72メートルで同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級である。

この楯築遺跡とツングース系王家との関係を検討しますと次のとおりです。

まず、この地域は、縄文時代に陸稲栽培があったことが分かっております。縄文時代の陸稲栽培の実践者はマレー系以外には考えられません。すなわち、このことは縄文時代にマレー系民族が渡来してきた地域と判断されます。また、マレー系は海洋系であり、縄文時代に海洋交易をしていた民族と理解されます。吉備は製塩も行っていたことが分かっていますが、これも海洋系マレー系民族の行為と思われます。

また、吉備は弥生時代の水田遺跡も多数発見されており、築館古墳はその地域の首長の墓とされます。おそらく、その円墳の様式から、マレー系の首長の墓だった可能性が出てきます。そして古墳時代となると、ツングース系王家の象徴とも言える前方後円墳時代となります。

ツングース系民族は高身長であり、鉄器も持っており、武力に優れていたことが感じられます。一方、マレー系は低身長であり、ツングース系に武力では勝てなかったと想像されます。

以上のことから、吉備は、縄文時代から弥生時代にマレー系が支配し、その後、3世紀からツングース系王家が支配するようになった地域と理解されます。

また、ヤマトの古墳から大量の埴輪(円筒土器が大半)が出土しており、それら円筒土器は吉備(岡山)由来と言われております。このことを検討しますと、次のとおりです。

まず、吉備はマレー系が支配していましたが、3世紀になりますと、ヤマトのツングース系王家が支配するようになりました。そして、吉備は、土器片遺跡物も多いことから土器生産技術者も居て、ヤマトの埴輪を制作するようになったのではないかと思われます。

そして、宮崎の前方後円墳からも同様な埴輪が大量に発見されていることから見ると、吉備は西日本の埴輪生産の中心地となっていったと判断されます。

なお、吉備については吉備王国があったという説がありますが、それは楯築遺跡時代(2世紀)頃の話と思われます。その後、吉備は、ヤマトツングース系王家と同じ前方後円墳を多数建造していますので、ツングース系王家の一部になったと判断されます。

まとめますと、ツングース系王家はヤマトで3世紀後半から開始しましたが、まず、吉備を制圧し、続いて宮崎等の東九州を支配しました。その支配を証明する遺跡は、前方後円墳であり、かつ、そこから出土する吉備産の円筒型の埴輪と判断されます。

関連し、上トップに、吉備の弥生時代末期の様子を示しました。

ツングース系王家の繁栄と滅亡 2.ツングース系王家は出雲からヤマトに移動した

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出雲王家のヤマト移動

ツングース系王家の繁栄と滅亡 2.ツングース系王家は出雲からヤマトに移動した

前回、ツングース系民族が稲と鉄器を持って日本に移住してきた経過について検討しました。今回は、彼らが最初に創ったのが出雲王家だったが、それがヤマトに移動した経過について検討します。

まず、日本で最初にできた王家ですが、それは出雲王家と推察されています。出雲は島根と鳥取の地域を指しますが、出雲からは弥生時代の先進遺跡が多数発掘されています。

それらの遺跡ですが、まずは、大量の青銅器遺跡です。

加茂岩倉遺跡は、見通しの悪い谷間にある遺跡ですが、39個もの多数の銅鐸がほぼ無傷で出土しました。また、荒神谷遺跡も谷間にある遺跡ですが、整然と並べられた358本の銅剣が発見されました。さらに、この隣からは銅鐸6個と銅矛16本も出土しました。 

弥生時代は青銅器遺跡時代とも言われますが、出雲は、青銅器の移入や建造の中心地だったことが示唆されます。

なお、ヤマト地域では銅鐸のほとんどが壊れて出土しています。しかし、出雲地域の青銅器が無傷で出土しました。その理由について検討しますと、次のとおりです。

おそらく、銅鐸はツングース系民族のシンボル的存在でした。そのツングース系のヤマトの王家が多数の大規模古墳建造で民衆の怒りをかって滅びたとき、民衆の憎しみは激しく、銅鐸もツングース系王家のものとして扱われ、壊されたのではないかと思われます。しかし、出雲は離れた地域にあり、また保存された場所は山間の谷輪だったため、そのまま無傷で保存されたのではないかと思われます。

次いで、四隅突出型墳丘墓です。

弥生時代後期から四隅突出型墳丘墓という特徴的な方墳が日本海側のいくつかの地域で認められますが、規模と美しさから出雲が中心地だったと判断されます。有名な遺跡として、島根県出雲市の西谷墳墓群(西谷2号墓・3号墓・4号墓・9号墓)、出雲東部では島根県安来市の仲仙寺古墳群(仲仙寺9号墓・10号墓)、宮山Ⅳ号墓などが知られております。

これらの墳丘墓は方墳であり、方墳は朝鮮半島に多いことから、そのルーツは朝鮮半島と判断されます。そして、これらの遺跡は、出雲は弥生時代の中心地であり、かつ、朝鮮半島由来の古代国家があったことを示唆します。

一方、同時代、北九州に奴国等の弥生時代の小国家、続いて3世紀に邪馬台国がありました。しかし、この時代、北九州地域には、出雲地域のような青銅器遺跡群、四隅突出型墳丘墓のような大遺跡は見当たりません。

関連し、拙ブログでは邪馬台国は大分にあったという説を支持しています。詳しくは、拙ブログのカテゴリ「邪馬台国の真相」を参照願います。

おそらく、北九州と出雲は、同時代を平行して進んだものと思われますが、なぜ出雲に安定した王家が出現したのか検討しますと、次のとおりです。

まず、北九州地域は南方マレー系の影響が強く感じられます。彼らは中国南部から朝鮮半島西部に渡来したグループであり、朝鮮半島北部由来のツングース系民族とは異なります。さらに、そこへツングース系民族の渡来もあり、民族対立がありました。邪馬台国の「倭国の大乱」にはその民族対立が背景にあったことが感じられます。詳しくは「邪馬台国の真相 2.民族対立問題があった」を参照願います。

一方、出雲地域には民族対立問題は感じられません。朝鮮半島から渡来したツングース系民族が中心に居て、争いは少なく、王家は安定していた印象を受けます。

続いて、日本は古墳時代へと発展しました。

ヤマトに墳丘長278mの巨大前方後円墳「箸墓古墳」が3世紀末期に突然として現れ、この巨大古墳建造は5世紀末前半まで続きました。また、王宮跡と推察される「纏向遺跡」という巨大建造物も作られました。

関連し、これらヤマトの遺跡には、墓式、埴輪等について出雲がルーツという研究があります。また、ヤマトや近隣には出雲のような弥生時代末期の大規模遺跡は発見されていません。

これらの情報を総合しますと、朝鮮半島から移住したツングース系民族は、最初に出雲に王家を創り、その後、ヤマトに王家を移したと観るのが妥当になります。

その移動の理由は次のようだったと推察されます。

まず、ツングース系民族は朝鮮半島から稲と鉄を持って日本海沿岸に到着しました。なかでも、出雲は、急流のある対馬海流を避けた地域にあり、渡来しやすい場所にありました。朝鮮半島西部ではマレー系の持ち込んだ水田稲作が先行しましたが、畑作民族だったツングース系民族は、それら水田稲作を学びました。そして日本に渡来した後は、持ってきた稲と鉄で水田稲作を行い、出雲平野を中心に発展し、青銅器遺跡や四隅突出型墳丘墓を残しました。その四隅突出型墳丘墓が系統的に出現した様子から観ると、すでに王家が築かれていた可能性が高くなります。いわゆる出雲王家です。

しかし、出雲地域は稲作適地の平野部が少ない問題がありました。一方、他方に移住していたツングース系の仲間が西日本に広がっていました。彼らの情報を総合すると、稲作適地は多数あり、ヤマト(奈良)は、その中心地の場所にあることが分かりました。そこで、より大きな王家の発展を目標に、彼らはヤマトに移住したと結論されます。

なお、ヤマトは中山間地の盆地にあり、漏水の問題があり水田稲作の適地ではありません。しかし、その周囲には東海、北陸、山陽地域等の稲作適地が多数あり、おそらくヤマトはそれら広大な地域をまとめるための中心地だったことが最初から分かっていて、そこに王家を作ったと観ることができます。

一方、日本古代史では、出雲王家とヤマト王家は別々にあったという見解が主流の感じがします。

しかし、それぞれの古墳建造時期を見ますと、出雲王家は3世紀前半に集中し、一方、ヤマト王家は3世紀後半から発生し、それぞれの存在時期が異なります。さらには、遺跡はそれぞれ同じ朝鮮半島由来ツングース系民族のものであったこと、ヤマトに出雲と同等の弥生時代遺跡は発見されていないこと、ヤマトの古墳の埋葬様式や埴輪のルーツが出雲にあること等から総合しますと、出雲王家が先にあり、それがヤマトに移動したと判断するのが妥当になります。

関連し、出雲からヤマトに王家が移住した経過を上トップ図に示しました。