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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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海洋文化のルーツはマレー系


マレー系の日本移住


海洋文化のルーツはマレー系

天皇家はアイヌ系 5.日本文化のルーツ 4)海洋文化のルーツはマレー系

日本語、日本宗教(神社)、稲作のルーツについて検討してきました。

日本語はアイヌ語がルーツであることが明らかです。神社信仰はアイヌの自然との共生思想がベースになり、これに東南アジアから持ち込まれた鳥居、さらには中国様式の境内が導入され、荘厳な神社ができあがりました。また、日本農業(生産力)のベースになった水田稲作は、中国南部に居た稲作民族のマレー系が持ち込み、朝鮮半島由来ツングース系が鉄器を持ち込み普及させました。

これらの他、日本には海洋系の文化が縄文時代遺跡から覗えます。それらは、山内丸山時代の海洋交易、関東地域の巨大な貝塚遺跡等です。

関連し、今回は、これら海洋交易文化がどのように持ち込まれ発展したのか検討します。

結論から入りますと、日本人は、アイヌ系が35%、マレー系が30%、ツングース系が25%、その他10%の混合混血民族であることがDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果明らかになっていますが、上記の海洋文化と関連する民族はマレー系以外には考えられません。すなわち、日本の海洋文化のルーツはマレー系民族にあることはほぼ間違いないと判断されます。

マレー系が日本に来た経過については、2回の波がありました。1回目の波は6000年前の縄文時代です。縄文時代人骨調査によれば、マレー系らしい小柄な人骨が多数発見されていますが、これらはマレー系民族の人骨と思われます。

これらの流れの中で、マレー系は海洋交易の遺跡を至る所に残しました。三内丸山遺跡と関連し、網走の黒曜石や富山の宝石(翡翠)の分布はそれらを物語っています。また、関東の居住地からは多数の貝塚が残されていますが、これらも海洋系マレーの生活跡と想われます。

極めつけは、岡山市の彦崎貝塚です。ここからは貝塚の他に6000年前の地層から稲プラント・オパールも発見されています。この時期の稲は陸稲ですが、稲を持ち込んだのはマレー系以外には考えられないことから推察しますと、マレー系が貝塚と併せて残した稲遺跡と思われます。

マレー系、第二の流れは弥生時代の稲作導入時期です。このことは前回紹介した通りです。

これらの様子を上トップ図に示しました。

以上のことから、マレー系の日本渡来については、縄文時代と弥生時代の2回に分かれますが、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、それぞれDNAの違いが明らかになっています。

日本と朝鮮半島には、約30%のマレー系がいますが、縄文時代マレー系(マレー系A)は日本に20%と多く(韓国で10%)、一方、弥生時代マレー系(マレー系B)は日本で10%と少ない(韓国で20%)状況です。

次に、日本に古来より居る海の民と言われる海族や隼人族ですが、以上の経過からして、そのルーツは縄文時代のマレー系と結論されます。彼らは、縄文時代、海岸に居を構え、貝を主食としの日本の海を自由に航海し、交易したのではないかと想われます。

その関係から想像しますと、古墳時代末期、アイヌ系継体王(在位:507-531年)が現れ、巨大古墳を建造したツングース系王家を滅ぼしましたが、海洋系マレーは同じ縄文時代からの仲間のアイヌ系に協力して新時代王家の仲間入りをしたのではないかと思われます。

その1人が大化の改新(乙巳の変 645年)で有名になった中臣鎌足です。彼は、継体王が王家を開いたとき、海洋系の代表として新政権の有力者(豪族)の1人となり、歴史に名を残すようになったと想われます。なお、中臣鎌足が縄文時代からのマレー系であることはDNA研究から分かったことです。

さらには、海の神を祭っている宗像大社があります。Wikipediaによれば宗像大社は次のとおりです。


宗像大社(むなかたたいしゃ)は福岡県宗像市に在る神社。式内社(名神大社)、八神郡の一つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社であり、『日本書紀』では、一書に曰くとして「道主貴」と称される。玄界灘に浮かぶ沖ノ島を神域とし、沖ノ島で出土した古代祭祀の奉献品の多くは国宝に指定されている。裏伊勢とも称される。(引用終了)

すなわち、宗像大社は海族を守ってきた巨大な神社であり、沖ノ島という神域まであり、アイヌ系の現王家を海から支えてきた神社と理解されます。

一方、日本以外のマレー系ですが、彼らがアフリカのマダガスカル移住したことは有名です。彼らは1世紀頃からマダガスカルに居たこと、バナナや稲作をアフリカに導入したこと、マダガスカルの多数派民族になったことが知られています。

どのように、彼らはマダガスカルに移住したかについての詳細は分かっていませんが、遺跡調査によれば、彼らは、まず対岸の東アフリカ(タンザニア)に居住し、その後、マダガスカルの北部海岸に移住し、1年中温暖な山間部に移住したことが分かっています。

このマレー系のマダガスカル移住については下図に示しました。

海洋系マレーの日本とマダガスカルへの道

一方、日本とアメリカ大陸先住民族の関係もあります。5000年前の縄文土器がペルーで発見されたのは有名な話です。これが、日本に居た海洋系マレーが持ち込んだのかは興味あるところです。

また、関連し、日本人がアメリカ大陸に移住したことについては多くの日本人研究者が指摘しています。

最近の研究によれば、現在の北米インデアンは1~5世紀頃に移住したトルコ系民族(Y染色体ハプログループQ等)であることが分かっています。しかし、中南米の民族のY染色体ハプログループ分類については報告がありません。

この様子を、想像ですが下図に示しました。

縄文時代マレー系のアメリカ移住(想像)

下の写真(2枚)は著者がマダガスカルの先住民族の人たちを写したものです。アフリカ人に混じってマレー系の老婦人が見えますが、彼女はインカ先住民族に似ている感じがしています。

マダガスカルで見たマレー系2

マダかスカルで見たマレー系1

関連し、Web検索情報ですが、古代インカの人々のDNAについては、ミトコンドリアDNA情報はありますが、Y染色体ハプログループについては、報告を見ることはできません。

Y染色体ハプログループが分かれば、古代インカ人のルーツは分かりますが、まだ関連の報告を見ることができないのは不思議です。何か大きな力が陰で動いている感じがします。

背景に、日本人が中南米に移住し、インか文明等を残したことを認めたくない勢力があるものと想われます。


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[ 2023/02/10 07:32 ] 未分類 | TB(-) | CM(4)

稲はマレー系が持ち込んだ


照葉樹林文化地帯周辺のマレー系(O1b)の割合


稲はマレー系が持ち込んだ

天皇家はアイヌ系 5.日本文化のルーツ 3)稲はマレー系が持ち込んだ

日本文化のルーツと関連し、日本語はアイヌ語、神社宗教はアイヌの自然信仰に由来すること、それらは、天皇家が朝鮮半島由来ツングース系からアイヌ系の継体王(在位:507-531年)に替わったことに由来することを検討してきました。

一方、日本には、アイヌ系とは独立に発展した文化として稲作、納豆などの発酵食文化が知られております。これらの文化は東南アジアの食文化と関係があり、照葉樹林文化とも言われたことがあります。

そして、照葉樹林文化は照葉樹林文化論とも言われ、50年前の1970年代、稲作のルーツとも関連し、たいへん流行った文化論でした。

関連し、今回は、これらの文化が誰によってもたらされたのか検討し、照葉樹林文化論が否定されている現状について検討します。

まず、照葉樹林文化は、Wikipediaによれば、照葉樹林文化論として次のように紹介されております。

照葉樹林文化論(しょうようじゅりんぶんかろん)とは、1970年代以降の日本の文化人類学において一定の影響力を持った学説である。具体的には、日本の生活文化の基盤をなすいくつかの要素が中国雲南省を中心とする東亜半月弧に集中しており、この一帯から長江流域・台湾を経て日本の南西部につづく照葉樹林地域に共通する文化の要素は共通の起源地から伝播したものではないかという仮説である。また日本列島の縄文文化は照葉樹林文化の一種であるとの誤解を一部にまねいた。(引用終了)

引用記事をまとめますと、照葉樹林文化論はほぼ否定されたものと思われます。

第一の理由は、日本の食文化に多大な影響をもたらした稲作のルーツについては雲南でなく、江南地方であることが分かったことです。

最近の研究では、最も古い稲品種はインドネシア(もとスンダランド)にあり、種類は熱帯日本型で、地球温暖化に伴い、それらが北上し、縄文時代頃に揚子江流域の江南地方で栽培されたことが分かっています。

それを裏付ける代表的遺跡は7000年から始まったと言われる巨大な河姆渡(かぼと)遺跡です。この遺跡は北の3000年前の黄河文明より早いとも言われております。

そして、稲作の北上経過ですが、初めに、最古の稲品種がインドネシアで開発され、それが北上し江南地方に広がり、さらに北上し、山東半島を経て、韓国西南部と北九州に3000年前頃に広がったと推察されています。

一方、岡山市の彦崎貝塚で、6000年前の地層からイネのプラント・オパールが多量に出土したことが明らかになっていますが、これが日本最古の稲作遺跡と判断されます。しかし、この縄文時代稲作は陸稲栽培でした。上記の河姆渡遺跡とは別の流れのものと推察されます。

陸稲栽培は、畑作と同じで、連作ができない、休耕期間が必要である問題があり、一般に低収栽培技術です。しかし、水田作は、流れてくる水の中に含まれている養分を肥料として使うことができますので、連作可能な栽培技術です。

この水田稲作の普及は、水路造成、水を貯める畝造成が必要であり、2500年前の鉄器の普及と共に広がったと判断されます。

次に、民族との関係ですが、日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、朝鮮半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。こういった東南アジア文化を日本に持ち込むことができた民族はマレー系以外に考えることはできません。

因みに、照葉樹林文化地帯と言われる東南アジアと東アジアのマレー系の人々の割合は上トップ図のとおりです。

マレー系の人々はバリ等やジャワ島で割合が高く、ここがルーツと思われます。さらには、ベトナムで33%、ヤオ族(中国南部)で40%、朝鮮半島と日本で32%と高頻度です。マレ-系の人々が稲作を携え、東南アジア、中国を北上し、朝鮮半島と日本へ来たのはほぼ間違いないと思われます。

関連し、近著「稲作渡来民」(池橋宏 2008)には、その経過が詳しく描かれています。(下図参照)

稲作渡来民(書籍)

まとめますと、50年前に流行した照葉樹林文化論は、稲作起源が雲南ではなく江南地方であることが明らかになり、否定されたものと想われます。

稲作はマレー系民族が日本へ持ち込んだことは明らかです。一方、水田稲作には鉄器が必要です。これを携え、水田稲作を普及させた朝鮮半島由来ツングース系民族の評価も水田稲作普及の観点から重要と判断されます。


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[ 2023/02/03 08:03 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(4)

神社信仰のルーツはアイヌの自然信仰


日本宗教の成立率経過


神社信仰のルーツはアイヌの自然信仰

天皇家はアイヌ系 5.日本文化のルーツ 2)神社信仰のルーツはアイヌの自然信仰

多くの見解をまとめますと、日本人の宗教は、世界3大宗教(1神教)とは別の宗教、自然崇拝を基本とする多神教(原始宗教)に分類されるています。

私ことですが、外国に入ったとき、入国カードに宗教欄があり、Buddhistと書いてきましたが、それは方便でした。私の田舎の実家は曹洞宗の檀家になっておりますが、敬虔な仏教徒ではありません。習慣としての仏教徒であり、仏教を信じているわけではありません。

私、あるいは日本人の多くが怖れているもの、それは、地震、洪水などの自然災害です。また、美しい四季の景色は神様の贈り物と思っています。このため、自然の至るところに神を感じ、美しい山を見ればお祈りし、美しい川を見ればお祈りし、その美しさが永遠であることを願い、山や川を汚すことを嫌います。

その日本人の畏れ(宗教)を如実に表現しているのが家を建てるときの地鎮祭と思われます。神様のお許しを得るという意味で地鎮祭は欠かせません。もし、地鎮祭をしないで建設を進め、事故が起きたら大変です。

このような日本人の宗教観は縄文時代からあると推察されています。それは、縄文時代から生き続けているアイヌの人々の宗教から分かったことです。アイヌの自然との共生思想は有名ですが、同時に、日本人の多くも持っている思想です。

日本には、10万年前から人類が住み着いていたことが遺跡から分かっています。アイヌが日本に住み着き、そのなかで育まれた宗教が自然との共生思想と思われます。その後、1万年前頃、マレー系民族が来ました。そして、ツングース系民族が来ましたが、日本人になるなかで、同じくこの宗教を持つようになったと思われます。

その意味で、日本の宗教は、美しい自然と厳しい自然の中で民族の違いを越えて育まれた独自のものと思われます。

一方、朝鮮半島由来のツングース系王家が支配した古墳時代が来ると、それらの世界観は一時的に変わったと思われます。しかし、再びアイヌ系が支配する時代が継体王(在位:507-531年)から始まり、縄文時代信仰が主流になったと判断されます。

その後、仏教、儒教、キリスト教が入ってきましたが、日本の宗教は10万年という気がとおくなるような時間を経て形成された思想ですので、それらを受け入れても同化はしなかったのが真相と思われます。すなわち、新しい宗教の神は神様の中の一人として受け入れられただけでした。

関連し、日本と同じ多神教宗教について下図にしめしました。

日本と同じような多神教の世界の宗教

一方、こうした日本人の宗教が世界で役立つのかですが、個人的には次のような感じです。

私ことですが、10年以上前になりますが、アフリカの中央にあるベナン(奴隷海岸)で働いたことがあります。そして日本人の自然崇拝の宗教と同じような宗教をもっていたブードウ教徒に出会いました。ブウドウ教は、西アフリカ現地の宗教で、ベナン国の国教になっていました。

彼らは自然の神々を崇拝するブードウ教徒ですが、同時にキリスト教も敬い、あるいはイスラム教も敬い、まさに多神教でした。このような関係は、日本人の宗教、そしてインド発祥のヒンズー教にも認められます。その長所は、宗教で対立することはないという感じでしょうか。

関連し、下の写真はベナン国で買ったブードウ教関係のマスク(お面)です。

ベナンで買ったブウドウ教関連マスク

次に、神社の様式がどのような経過を経て現在のようになったのかについて検討します。

神社の入り口にある鳥居ですが、調べますと、鳥居のルーツは照葉樹林文化地帯にあるという報告があります。

そこで、小生の経験ですが、下の写真は、小生が仏教国ミャンマーの山中で撮ったもので、現地の人に聞いたところ、仏教でなく在来宗教(原始宗教)の神社の入り口だと言われました。この神社の入り口の様子が日本の神社の鳥居に似ており、日本の神社の祖型かと思いました。

ミャンマーの地方の宗教施設

この写真を門のところだけ拡大すると下図のとおりで、鳥居の形と同じです。

鳥居のルーツか(ミャンマーの宗教施設)

ということは、照葉樹林文化地帯に住んで居たマレー系の人々(倭人)が、日本に来て、そこにあった鳥居様式を導入した可能性があります。初めは粗末なもので遺跡には残りませんでしたが、後に立派なものを作るようになったと思われます。

次に、神社内部の建物ですが、これらは仏教建築物とほぼ同じで、これも時代と共に大きくなり、荘厳な建物になっていったと思われます。そして、天皇家の確立した奈良時代以降、関連する神社も荘厳な建物に発展していったものと想われます。

一方、小生はマレーシアに3年住んだことがあります。そのときの映画の一場面ですが、森の中にリスのような精霊が遊んでいる場面が出てきました。マレー系の人々は微笑みながら見ていましたが、おそらくムスリム教が入る前に原始宗教があり、それが映画で表現されていたと思われます。

まとめますと、神社のルーツは、原則としてアイヌ系の自然との共生思想に由来する神々ですが、その成立過程においては、鳥居等は東南アジア由来、また境内は中国の廟様式をまねてできあがってきたものと思われます。

関連し、日本宗教の成立経過を上トップに示しました。


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[ 2023/01/27 08:44 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(2)

日本語のルーツはアイヌ語


日本語のルーツはアイヌ語とマレー系発音


日本語のルーツはアイヌ語

天皇家はアイヌ系 5.日本文化のルーツ 1)日本語のルーツはアイヌ語

今回は、日本語のルーツについて検討します。

まず、多くの学者の見解をまとめますと、日本語のルーツはアイヌ語になります。沖縄には琉球諸語がありますが、これらもアイヌ語がルーツとなっています。文法、基本単語を調べていきますと、アイヌ語につきあたるということだと思います。

日本列島には初めにアイヌ系の人々が住み着きました。10万年前の人類遺跡から、アイヌ系の人々は10万年前から日本に住んで居たと推察されております。

一方、大陸(朝鮮半島)からツングース系の人々も縄文時代中期頃から日本に来ていることが分かっています。当初は、彼らは、少しずつ長期に渡って日本に移住してきたため、日本語に与える影響は小さかったと思われます。

偶然にも、ツングース系言語とアイヌ系言語は、動詞が最後に来るという点で文法スタイルが似ており、移住してきたツングース系の人々にとって日本語は受け入れやすかったと思われます。

ツングース語とアイヌ語の文法が何故似ているかですが、次のことが推察されます。

まず、ツングース系民族はモンゴル系と中国系の混合混血です。そして、ツングース語はモンゴル系言語(ウラルアルタイ語系)と分類されています。このことは、ツングース系民族の故郷(中国東北部=満州)には当初モンゴル人が住んでいたが、そこに農耕民の中国人も住むようになり、混合混血し、言葉はモンゴル系、生業は畑作というツングース系民族が発生したものと想像されます。

最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)によれば、モンゴル系はC型、アイヌ系はD型で、両者とも古いタイプに属し、両者とも最初にアフリカを出たグループでベースが近い関係にあります。このため、言語文法も似ていたのではないかと想像されます。

彼らツングース系民族は、弥生時代と古墳時代に日本の覇者となりました。このとき、日本列島の平野部はツングース系民族が多数派であり、王家を築き、巨大古墳建造が流行しました。おそらく、これら古墳建造時代はツングー系言語が王家の言葉として使われていたと想像されます。

しかし、それら古墳建造に従事していたアイヌ系が反乱を起こし、その王家はアイヌ系継体王(在位:507-531年)によって滅ぼされました。この結果、新王家となったアイヌ語が日本の主流言語となっていったと判断されます。

なお、大阪弁がありますが、大阪弁は韓国の釜山言語に雰囲気が似ていると言われます。おそらく、大阪は5世紀に巨大古墳が建造され、ツングース系王家の栄えた土地であり、そのような訛りが残り、現在まで続いてきたのではないかと思われます。

なお、ツングース系王家が平野部で栄えていたとき、先住民族のアイヌ系は中山間に住み従来の習慣を保持し水田稲作を徐々に受け入れていった時期と思われます。

続いて日本語の発音のルーツですが、発音はマレー語にたいへん似ています。例えば、小生がマレーシアに居た時のマレー語レッスンに、人はオラン(人=オラン)、米はナシ、魚はイカン、餅菓子はクエ、というのがありました。カタカナがマレー語ですが、そのカタカナ発音がマレー語になります。

そこで、その日本語発音(マレー語発音)のルーツについて考察しますと、同じ発音をもつ万葉仮名がルーツになったことは確かです。万葉仮名を使うようになってから、実際の発音は文字言葉と一致するようになっていったと思われます。

漢字を万葉仮名風に使うという方法は、外国人名や外国地名を表す方法として中国で使われていました。これを、中国と交易していた百済が導入し、続いて日本もこれを導入したことになります。

継体王(在位:507-531年)が最初に外交をおこなった大王、あるいはは最初に文字を導入した大王と言われていますが、それが万葉仮名の始まりだった判断されます。

そして、マレー系は約30%が日本に居ますが、稲作導入との関係で特に多くいたと思われる北九州です。そこには、マレー語に由来する方言が散見されます。例えば、マレー語(日本方言)で示しますと、ソウヤロ(そうやろ)、バッテン(ばってん)、カタル(語る)等です。

また、日本古語にもマレー語の影響が認められます。例えば、マレー語(日本古語)で示しますと、イトオカス(いとおかし)アナオソロ(あな恐ろし)等です。

また、百済を「くだら」と読むことの理由については謎でしたが、マレー語でKudaraは兄弟という意味ですので、おそらく北九州の同じマレー系の人々が百済を兄弟(Kudara)と呼ぶようになったことに由来すると想われます。

以上の事例は、マレー語と日本語の密接な関係、特に、マレー語読みの万葉仮名と日本語の関係を示すものと思われます。

以上のことから、万葉仮名は、百済と北九州倭国で4世紀頃から使われ、続いて、継体王(在位:507-531年)時代の6世紀頃からヤマト政権でも使われるようになったと推察されます。因みに、継体王の時代には、百済から五経博士が来るようになり、大和政権でも初めて文書が作られるようになりましたが、継体王が初めて文字を導入したとも言われています。

関連し、上トップに日本語の形成過程を示しました。

また、百済語(万葉仮名)を導入した古代日本の様子を下図に示しました。


百済語と日本語の関係6世紀


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[ 2023/01/20 09:24 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(3)

日本文化のルーツは縄文・弥生時代にある.


日本文化と三大民族の関係


日本文化のルーツは縄文・弥生時代にある

天皇家はアイヌ系 5.日本文化のルーツは縄文・弥生時代にある(第5章の序文)

これまで、日本人はアイヌ系が35%、マレー系が30%、朝鮮半島由来ツングース系が25%、その他10%の混合混血民族であること、現天皇家は継体王(在位:507-531年)に始まるアイヌ系であることを検討してきました。

そして、これらの民族は、日本語や宗教等の日本文化の形成に大きく関わってきました。関連し、ここ第5章では、日本文化と日本民族の関係について検討します。

おそらく、これらの方面での第一人者は梅原猛と思われます。彼は、日本文化のルーツを調べ、北海道アイヌ古老と話したとき、日本語や日本人の死生観(あの世観)がアイヌと同じことを発見しました。

例えば、アイヌ語では神はカムイ、魂はタマであり、アイヌ語には日本語とまったく同じ単語が使われています。このような精神に関わる単語は外国から導入されたとは考えにくい、すなわち、日本語の自生の基本単語として、もともとあった単語と観ることができます。

また、日本には、死後の世界として「あの世」があると信じられてきました。「あの世」は「この世」とあべこべの世界で、「この世」の夜は「あの世」では昼に当たります。このため、死人を「あの世」に送るための儀式に「通夜(つや)」がありますが、この儀式は「あの世」では明るい昼にあたる夜に行なわねばならない異紹介しました。

小生はいくつかのアジアの国をあるきましたが、このような儀式があるのは日本だけです。おそらく、梅原猛指摘のとおり、これは縄文時代から続いていた葬式で、仏教が入る前の葬式は「つや」だけだったことになります。

これらアイヌと同じ言葉と宗教が現代まで続いていることの理由を検討しますと、日本の支配者(天皇家)が同じアイヌ系だったためと観ると当然のことと思われます。そして、このことは最近の、天皇家はアイヌ系というDNA研究結果により確実になったと思われます。

また、日本の宗教は神社宗教(神道)と言われます。この宗教は多神教であり、アイヌの自然との共生思想と同じであり、神道のルーツもアイヌ系にあることは確実でしょう。

一方、アイヌ系の文化では説明できていない遺跡や文化があります。例えば、稲作、照葉樹林文化、巨石文化、海洋交易ですが、これらの実例は南方に認められます。

南方系の人々として、日本には30%のマレー系の人々がいますが、これらの文化はマレー系の人々がもたらしたものと思われます。

一方、日本は稲作の拡大により発展しました。稲作には陸稲様式と水田様式がありますが、この稲作で生産力が高いのは森から流れてくる養分を含んだ水を利用する水田稲作です。

この水田稲作には、水路や水を貯める畝を作るための鉄器農具が不可欠ですが、この鉄器を導入し稲作を発展させたのは、朝鮮半島由来ツングース系民族です。そして、水田稲作を拡大し、弥生時代と古墳時代の覇者となったのはツングース系民族でした。

本章では、これらの民族との関係から、日本文化のルーツに迫ります。

なお、本章の副題(節)は次のとおりです。

1) 日本語のルーツはアイヌ語
2) 神社信仰のルーツはアイヌの自然信仰
3) 稲と照葉樹林文化はマレー系が持ち込んだ
4) 海洋文化のルーツはマレー系
5) 巨石文化はマレー系が主として作った.
6) 鉄器はツングース系が持ち込んだ


関連し、日本文化と日本三大民族(アイヌ系、マレー系、ツングース系)の関係を上トップ図に示しました。



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[ 2023/01/13 07:55 ] 未分類 | TB(-) | CM(6)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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